真白の雲と君との奇跡
もう少し。思った刹那、義勇と目があった。安堵もそこそこに流れる視線。それだけで義勇の言わんとすることが伝わる。杏寿郎は進路をわずかにそらせた。義勇も少しずつ横へ、横へと進んでいる。千寿郎をかかえながらでは、先ほどまでのような速さは望めない。だがそのおかげで杏寿郎は義勇に追いつくことができた。
「千寿郎!」
「兄上!」
義勇にしがみついたまま、びしょ濡れの顔で叫んだ千寿郎に、泣きたくなった。だが、そんな暇はどこにもない。
「落ち着いて、さっきまでのように仰向けに浮け! 大丈夫だ! 絶対に離さないから!」
海流に流されまいと必死に泳ぎ続けながら、杏寿郎は義勇の背に回りこみ、千寿郎にどうにか笑いかけた。グッと唇を噛み、こくりとうなずいた千寿郎が、義勇の腕のなかで力を抜いたのがわかった。
「いい子だな、千寿郎。さぁ、戻ろう」
しっかりと千寿郎を抱いたまま、義勇が言う。声は決意に満ちて、義勇も微笑みを浮かべていた。
義勇のシャツの背中を掴みしめると、義勇が杏寿郎と目を合わせうなずいた。
気を抜くと海流に流される。これ以上沖に向かわぬよう、沿岸と平行に杏寿郎と義勇は泳ぎだした。とはいえ義勇は千寿郎をかかえている。推進力は脚力だけだ。千寿郎の顔が水に浸からぬよう自身の胸に乗せ、背泳ぎの状態で泳ぐ義勇を、引くのは杏寿郎だ。
ちらりと視線をやった先で、千寿郎のTシャツを掴む義勇の手は、真っ白になるほど力がこめられている。大丈夫。義勇は絶対に千寿郎を離さずにいてくれる。信頼は深く、義勇に対する不安は欠片も浮かばなかった。
離岸流の幅はさほど広くはない。流れから抜け出られれば、あとは沿岸を目指すだけだ。
しゃにむに流れに逆らい泳ぐうち、ふと、体が引っ張られるような強い力が消えた。岸に寄せる波が、杏寿郎たちの体を沿岸へと向かわせる。
けれど油断はまだできない。水流から抜け出せば、今度は波に飲まれる可能性が高まるのだ。
強風で波はかなり荒くなってきている。どうしたって目に入る海水がしみて、何度も目を閉じそうになった。だが不安な顔はできない。千寿郎が目にすれば、またパニックを起こすかもしれない。怯えさせるのは駄目だ。
ときおり向けるまなざしの先では、義勇も笑みを浮かべていた。千寿郎のために、必死に笑ってくれている。
杏寿郎は、波をかき分ける腕に渾身の力を込めた。
岸は、まだか。苛立ちに似た焦燥に、杏寿郎が張りつけた笑みのまま目をすがめたそのとき。唸るエンジン音が近づいてきた。
ライフセーバーの水上バイクだ。
助かった――!
とっさに振り返り見れば、義勇の顔も、安堵からか泣きだしそうに歪んでいた。
必死の救出劇などまるで知らぬげに、オーアオ、アーオアオと、アオバトの鳴き声が海辺にはひびいていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
意識もありとくに怪我は見られないとはいえ、千寿郎が溺れかけたのは事実だ。念のために救難所で手当てを受け、これなら大丈夫と救護班に太鼓判を押してもらうまで、杏寿郎は生きた心地がしなかった。そのころには、セーバーの出動に騒然としていたビーチも、落ち着きを取り戻したようだ。
大事がなくてよかったと笑う釣り人たちに礼を言って回り、救難所の人たちにも頭を下げる。その間中、杏寿郎の顔からはまだ緊張が抜けきってはいなかった。ようやく本心から安心したのは、セーバーから遭難時の対応を褒められた千寿郎が、やっと小さな笑みを見せたときだ。ちょっぴりいたたまれないような誇らしいような、少し複雑なその笑みに、杏寿郎もどうにか安堵の笑みを浮かべることができた。
杏寿郎と義勇は、無茶をするなと少しばかりお叱りを受けたけれども。
だが、笑みを浮かべたのは杏寿郎と千寿郎だけだ。千寿郎の無事が確認されたときばかりは、安堵を露わにしたものの、義勇の顔はそれからずっと暗く沈んでいる。
「ごめんなさい、兄上……麦わら帽子、なくしちゃいました」
しょんぼりと肩を落とす千寿郎の、びしょ濡れの頭をタオルで拭ってやりながら、杏寿郎はちょっと泣きそうになった。
サイズが小さくなってしまった麦わら帽子は、杏寿郎がやった去年の誕生日プレゼントだ。風に飛ばされ海に落ちても、千寿郎にとってはなくしたくないものだったのだろう。言いつけに少しだけと逆らって、海に入ってしまうぐらいには、大事にしてくれていた。
「気にすることはない。帽子よりも千寿郎のほうが大事に決まっているだろう? 千寿郎が無事でよかった!」
風が強いのだから、こういう事態を想定することはできたはずだ。注意を怠り千寿郎から目を離しもした。ちゃんとサイズのあった帽子にしておけと、出がけに諭さとすことだってできたはずである。悪いのは自分だと、千寿郎に言い聞かせる杏寿郎を、義勇は黙って見ていた。
ようやく安堵したのか笑ってくれた千寿郎にホッとして、杏寿郎が義勇に視線を移せば、義勇はいつの間にか少し離れた場所に佇んでいた。
「こんなことになってしまってすまない、義勇。君のおかげで助かった! ありがとう!」
笑いかけても、義勇は動かない。訝しく小首をかしげた杏寿郎にうなずくでもなく、うつむいたまま視線すら合わせてはくれなかった。
「父上が迎えにきてくれることになってよかったな。この天気ならじきに服も乾くだろうが、さすがに電車に乗るのは迷惑になってしまう! 義勇、それまで一休みしようか!」
杏寿郎はしいて明るく笑ってみせた。だが、義勇の顔は暗く沈みこんだままだ。黙りこんだきり、相槌さえ打ってくれない。
そんな義勇に、千寿郎もどんどんと不安になってきたのだろう。何度も物言いたげに義勇を仰ぎ見ては、うつむくのを繰り返している。
せっかくのお出かけがこんな有様になって、後悔しているんだろうか。夏休み中とはいえ、制服だってびしょ濡れだ。錆兎の家の人たちに申し訳ないと思っているのかもしれない。
このまま送り返すのは杏寿郎だって嫌だ。千寿郎に注意を払うのを怠ったことが原因なのだから、すべての責任は自分にある。義勇には我が家で風呂に入ってから帰ってもらうべきだろう。できれば夕飯も食べていってくれるといいが。制服もクリーニングに出して、家の方にも侘びに向かわなければ。
切り出そうとした杏寿郎の声は、義勇がこぼした一言で、喉の奥にとどまった。
「……ごめん」
うつむき、いかにも苦しげに、義勇はそう言った。
「なぜ義勇が謝るんだ? 君はなにひとつ悪いことなどしていないだろう?」
謝罪の理由がわからない。義勇は千寿郎を助けてくれた。杏寿郎こそが礼を述べ、迷惑をかけたことを詫びるべきだろう。なのに義勇は、まるで世界中の罪をすべて背負ったかの如く、暗く悲しげな顔で首を振った。
「俺が……俺と一緒にいたから、千寿郎をあんな目に遭わせた」
俺が、疫病神だから。
絞り出すように義勇が口にした苦しげな一言に、杏寿郎は愕然と目を見開いた。
「なにを言ってるんだ! そんなことあるわけないだろう!」
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA