真白の雲と君との奇跡
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その朝、杏寿郎は目覚まし時計が鳴るより先に、パチリと目を覚ました。
意識が覚醒したとたんに、ぶわりと体中に歓喜がわき上がる。跳ねるように飛び起きた杏寿郎は、急いでカーテンを開けた。
いつでもスッキリと目覚める杏寿郎だが、今日は特別だ。
勢いよくカーテンを開けた瞬間に、眩しい朝の陽射しが部屋に満ちて、今日もいい天気であることがうかがえた。庭木の緑は朝露に濡れてキラキラと光り、風に揺れている。まだ控えめな蝉の声にまじり、雀の愛らしいさえずりも聞こえてきた。絵に描いたように爽やかな夏の朝だ。
「うん! いい朝だ!」
窓を開けてみれば、日中よりもいくぶん涼しい風が吹き込んで、春よりも少し伸びた杏寿郎の髪を揺らした。
今日は夏休み初日。義勇がうちにやってくる!
短縮授業期間に入る前日に義勇に切り出した、共同で行う自由研究は、約束どおり今日から開始する。学年が違うから錆兎は不参加だ。義勇と二人で研究テーマを決めて、二人で調べものをしたりレポートをまとめたりする。
義勇と二人きりでなにかを成すなど、初めてのことだ。杏寿郎の胸は期待にはちきれそうだった。
以前より会話してくれるようになったとはいえ、教室での義勇は、あまり変化がない。少しだけ豊かになった表情も、ちょっぴり多くなった言葉数も、おおむね昼休み限定である。
だというのに、夏休みに入る少し前から学校は短縮授業になり、そんなうれしい休み時間も夏休み明けまでお預けだ。だから杏寿郎は、どうしてもその前に、義勇と逢う約束がしたかった。
自由研究の共同発表という絶好の口実を与えてくれたクラスメイトには、感謝せねば。もちろん、申し出にうなずいてくれた義勇にも。
義勇はかなり面食らっていたようだが、それでも、やっぱりやめるなんて言わないでくれた。昼休みに錆兎に「夏休みは一緒に自由研究をするのだ」と報告したときも、義勇は、決定済みとばかりにうなずいただけだ。昼を一緒に食べるのでさえ、錆兎に相談してからだったというのに、思えばかなりの進歩である。
仲間に入れてもらえなかった錆兎はといえば、少し驚いた顔をしたが、反対などせず「なにか手伝いがいるようなら言えよ」と笑っていた。
ありがたくはあるが、できることなら錆兎の手を借りず、義勇と二人だけで頑張りたいものだ。
そうして迎えた今日は、とうとう夏休み初日だ。
『まずは俺の家で、研究テーマの相談をしないか?』
そう杏寿郎が持ちかけたのは、昨日のこと。いずれは義勇の家にも遊びに行きたいものだが、それはまだ早計だろうと杏寿郎は考えている。
義勇は錆兎の家に世話になっている身だ。いわゆる居候である。とはいえ親戚なのだし、錆兎とは大の仲良しだ。肩身の狭い思いはしていないだろう。
それでもやはり、遠慮はそれなりにあるに違いない。杏寿郎のほうも、まずは自分の家族に義勇を紹介したい気持ちがあった。
小学生のころに初めて逢ったときから、杏寿郎は何度も義勇の話を家族にしてきた。中学で再会してからはなおのこと、義勇の話題を口にしなかった日など一日たりとない。
おかげで千寿郎は、義勇には一度も逢ったことがないのに、すっかり大好きになっているぐらいだ。義勇がうちにくるぞと教えたら、ずいぶんとはしゃいでいた。
義勇さんは千のことも好きになってくれるでしょうか。
ちょっぴり不安げな千寿郎の頭をなでて、もちろんだと杏寿郎が断言したのは言うまでもない。だって千寿郎は贔屓目抜きにとてもいい子だし、義勇だって小さい子を無下にする人ではない。うれしそうにはにかむ千寿郎を見て、杏寿郎も癒やされる心地がしたものだ。
母も、義勇がくるとの報告に微笑み、よければ夕飯もご一緒にとお誘いしておきなさいと言ってくれた。義勇が了承してくれるかはわからないが、うなずいてくれるといいと思う。ときどき交換する弁当のおかずを義勇もうまいと言ってくれているから、母の手料理を義勇も気に入ることだろう。
残念ながら、父には直接の報告はかなわなかった。だがきっと、口うるさいことは言うまい。父にも義勇の話はしている。杏寿郎の口から語られる義勇のことを、父もいつだって楽しそうに聞いてくれているから、なにも心配はいらないはずだ。
義勇は礼儀正しいし、無口で無愛想ではあるけれども、穏やかでやさしい人なのだ。麗しいという言葉がしっくりと似合う男子中学生など、杏寿郎は義勇しか知らない。義勇は姿形が美しく整っているだけでなく、心根がまっすぐだし謙虚で芯の強い人だ。麗しい人とはまさしく義勇のためにある言葉だと杏寿郎は思っている。逢えば絶対に父も感心するだろう。だって、母も麗しい人だから。父だって母にどことなし似た雰囲気の義勇を気に入るに決まっているのだ。
だから、家族に関して杏寿郎は、心配なんてなにもしていなかった。期待はふくらむばかりだ。昨夜は布団に入ってもドキドキソワソワが治まってくれず、なかなか寝つけなかった。
寝起きの良さ同様に、杏寿郎は寝つきだってすこぶるいい。目が冴えてどうしても眠れないなど、初めての経験だ。
自分の家に義勇がいるのを想像するだけで、どうしても眠れなかった。夜も遅いというのに、何度、衝動的に叫んで走り回りたくなっただろう。抑えがたい興奮が幾度もわき上がって、目をつぶっても眠気は全然やってこなかった。最後に時計を確認したときは、針は十二時を差していた。
早朝稽古があるから、杏寿郎のいつもの就寝は十時だ。睡眠時間はだいぶ減ったが、ちっとも気にならなかった。体調だって絶好調だ。眠気なんてまるで感じない。
朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んで、杏寿郎は、「よし!」と強くうなずいた。
いくら楽しみでしかたなかろうと、義勇はただ遊びにくるわけではないのだ。今日の目的は自由研究のテーマ決めである。あくまでも学業のためだ。だというのに浮かれすぎてしまっていては、義勇に幻滅されてしまうかもしれない。
虚栄心など無縁の杏寿郎だが、なぜだか義勇にだけは、少しでもいいところを見せたくなるのだ。その理由は、たびたび感じる胸の痛み同様、いまだ明確に言語化されずに杏寿郎の胸に居座っている。
義勇の言動ひとつで、杏寿郎の感情は簡単に浮き沈みしてしまうのだ。まるでシーソーみたいに、舞い上がりそうになったり動揺したり、ガタンガタンと心は揺れる。切なさに胸が苦しくなったりもする。
そんな相手はほかには誰もいない。義勇だけだ。義勇にだけ、杏寿郎の胸はトクトクと甘く高鳴ったり、キュウッと締めつけられたりする。
いつか理由がわかるだろうか。義勇とどんな言葉でくくられた関係になりたいのかも、いつかはわかる日がくるといい。今のところは一番大好きな友だち以外に、義勇への想いに当てはめられるものはないけれど、いつかもっとふさわしい言葉が見つかるといい。思いながら杏寿郎は、道着に着替えた。
時計の針は五時を示している。特別な日だからといって稽古を休むわけにはいかない。
先輩たちや顧問の先生に熱心さが見られないから、杏寿郎も部活動は交流を楽しむことを重視している。だが、家での稽古は別だ。
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA