真白の雲と君との奇跡
幼稚園に入る前から、道場主である父の指南を受けている剣道は、杏寿郎にとって日常から切り離せないものである。
道場だけでは暮らしが立ち行かないのか、家の裏手で整体師もしている父は、昨夜は会合に行っていて帰りが遅かった。昨日稽古をつけてもらえなかったぶんも、午前の稽古は励まなければならない。
今日のことを考えると気もそぞろになりがちな杏寿郎だが、道場を前にすれば、面持ちも引き締まる。
磨きこまれた板敷きの床は、朝日を浴びて光って見える。昨日杏寿郎が生け替えた神棚の榊は、艶やかな深い緑色をしていた。
神棚の横に掲げられた額の、墨痕鮮やかに記された精神一到の文字が目に入り、杏寿郎の背筋が伸びた。早朝のせいか、道場の空気はまだひんやりとしている。吹き込んだ風に、真白い紙垂(しで)が揺れた。
道場の、静謐で神聖さすら感じられる張りつめた空気が、杏寿郎は好きだ。
いつか義勇にも、この空気を感じてほしいものだ。清々しさに胸がすくと、義勇も思ってくれたらいい。
願いつつ、杏寿郎は道場の入り口で一礼すると、同情に足を踏み入れた。素足で踏みしめる床板はまだ冷たく乾いている。しばらくすれば父と杏寿郎が流す汗で滑るほどに濡れる床も、今はまだ心地よいばかりだ。
すでに素振りを開始している父に向かって、杏寿郎は元気に声をかけた。
「おはようございます、父上!」
「おぉ、おはよう杏寿郎。今朝は早いな」
素振りの手を止めて笑い返した父に、杏寿郎はパッと顔を輝かせた。
「はい! 母上から聞かれていると思いますが、今日は友人がくるのです。寝坊などするわけにはいきませんから!」
「約束は三時だと聞いているが?」
早く起きる意味がわからないと言いたげに、父は少しあきれた顔で首をひねっている。
たしかに約束までかなりあるが、一秒だって時間を無駄にはできない。義勇がくる前に部屋を掃除して、いつも以上にきれいにしなければいけないし、買い物にも行かなければ。時間は有限なのだ。稽古だってするのだから、のんびりしている暇などない。
それに、動いていないとどうしても気がはやって、落ち着かないことこの上なかった。
「いろいろ準備がありますので! 初めて学校以外で逢うのです。みっともないところなど見せるわけにはいきません!」
「友達は課題の相談にくるんだろう? 準備なんて必要か?」
ハキハキと答えた杏寿郎に、父はかえって疑問を深めてしまったらしい。さも不思議そうに首をかしげたままだ。
「もちろんです! だって、我が家は夏場は麦茶と決まってますが、義勇はジュースのほうが好きかもしれません。茶菓子だって、どんなものが好みなのか俺はまだ知らないのです。いろいろと用意しておかないと、義勇が苦手なものだったら困ります!」
目的がなんであれ、せっかく来てくれるのだ。義勇にはくつろいでもらいたい。徹頭徹尾相談だけというのも味気ないではないか。義勇には楽しかったと思ってもらいたいのだ。
今日はまだ相談だけだが、テーマ次第では夏休み中に何度も逢うことになるだろう。義勇に次も楽しみだと思ってもらうには、初日が肝心だ。
「なんなんだ、その至れり尽くせりなおもてなし態勢は。友達にそこまで気を使ったことなどなかっただろう、おまえ。本当に友達なのか? まさか、杏寿郎、おまえ……くるのは女の子かっ! 女子を家に招いたのか!?」
怪訝な様子から一転、カッと目を見開いて杏寿郎につめ寄ってきた父に、今度は杏寿郎がキョトンと小首をかしげた。
「いえ、義勇は男です、父上。なぜ女子だなどと?」
義勇はきれいでかわいらしいけれど、れっきとした男子だ。杏寿郎よりもちょっぴり背だって高い。本音を言えばちょっと悔しい。
だが杏寿郎だってまだまだ背は伸びるはずだ。大きめの制服がピッタリになるころには、きっと義勇を追い越してみせると、杏寿郎はひそかに決意している。だから身体検査の翌日から、毎朝牛乳を飲むようにもしているのだ。
父の勘違いへの疑問から、少しばかりズレていった杏寿郎の思考を、父の小さな唸り声が引き戻した。
「それにしては、おまえの張り切りようはなんというか、その、好きな女の子を初めて家に招くようじゃないか?」
「はい、義勇は俺の好きな子ですが? 女子ではありませんが、義勇のことが大好きです! 一番大好きな友達です!」
あまりにも当然すぎることだから、口にするのに杏寿郎はなんのためらいもなかった。父もそうかと笑ってくれると思ったのに、なぜだか腕組みするなり、父は天を仰いで目をつぶっている。
「情緒面が……いや、まだ中学一年……しかし、いくらなんでも、俺だってこの年にはもう少し……」
「父上?」
なにやらブツブツと苦悩顔で呟きだした父に、杏寿郎はますます呆気にとられた。いったいなんだというのだろう。
父を悩ませてしまうようなことを自分は言ったのだろうか。わからず杏寿郎も首をひねったが、時間が過ぎるに任せているわけにもいかない。義勇との約束の時間は一秒ごとに近づいてきているのだ。
「父上、稽古を」
「お、おぉ。うん、まぁ、中学一年だしな。杏寿郎の初恋はまだ先になるか」
なんの気なしに呟いたのだろうが、父の一言は、杏寿郎の鼓動を大きく跳ねさせた。
「初恋……ですか?」
なぜだろう、胸が騒いでしかたがない。思わず聞き返せば、父は苦笑し、ポンポンと杏寿郎の頭を軽くたたいた。
「なに、おまえの様子が、初恋の子に気に入られようと必死になって、ちょっと空回りしているようにも見えてな。友達でこの浮かれっぷりじゃ、恋をしたらおまえはどうなるんだろうな」
ハハハと快活に笑って、父は、さて稽古するかとすぐに気持ちを切り替えたらしい。けれども杏寿郎はそうもいかない。
恋? 恋とはどういうことだ? いや、意味はわかる。わかるけれども、恋がいったいどういうものなのかは、本当はよくわからない。
動揺する自分が不思議だ。けれども父の言葉は、杏寿郎をうろたえさせるのには充分すぎた。
杏寿郎にとって恋という言葉は、現状、ドラマやマンガのなかにあるものでしかない。ドキドキするとかその人のことばかり考えてしまうと聞いても、あまりピンとこないのだ。
だってそれが確かならば、初めて義勇と出逢ったときから、ずっと義勇に対して感じてきたのと同じではないか。昔から常に心に居座っている感情だ。
いつだって笑っていてほしいし、悲しい思いをしてほしくない人。いつでも一緒にいたい人。家族を除けば、杏寿郎にとってそれは義勇だ。一番大好きで、誰よりも大切な友達だ。
そして義勇は、男だ。杏寿郎と同じ中学男子である。
男でも男に恋する人たちがいるのは、杏寿郎だって知っている。そういう人たちへの偏見もない。人が人を好きになるのに性別は関係ないはずだ。個人の自由だし、同性だろうと人を好きになるのはきっと素敵なことに違いない。
けれども、自分が同じ性指向かと問われれば、杏寿郎には、違うとしか答えようがなかった。
だって、クラスの男子にドキドキとしたり、男の人にうっとりと見惚れてしまったりしたことなんて、一度もないのだ。女の子にだって、今のところそんな経験はないのだけれど。
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA