天空天河 四
九 闇の龍
長蘇は、ゆっくりと歩き、誉王府の自慢の庭などを楽しんでいた。
空の雲間から、月は姿を現し、柔らかな月光は、誉王府の庭に降り注いだ。
完璧に配された奇石と低木、そして花々。
金陵の中でも、皇宮庭園に次ぐほどの、規模と設えだろう。
誉王府の従者は、散り散りになったと、江左盟の配下から報告があったが。
実際、案内した従者と、誉王の部屋にいた侍女以外の、人の姿を見ない。
時折、衣を翻す夜風が心地良く、回廊から出て、誉王の自慢の庭園に、降りてみる。
敷石を踏む音が、辺りに響く。
一際広い場所に、一段高い、割石を敷き詰めた舞台が有る。
雅な誉王が、舞姫に舞をさせる舞台だろうか。
大きくな割石が、規則的に並び、自然な石の色で、紋を画いていた。
長蘇は、石の舞台に上がり、降り注ぐ月光を浴びた。
──月の光に照らされて、ここで剣舞でも出来たら、さぞかし気持ちの良い事だろう。
こんな立派な舞台は、大梁中を探しても、そうそうお目にはかかれない。
景琰と対(つい)で、剣舞が出来たなら、どれ程、気持ちが良いだろう。─
この舞台に、靖王と二人、向かい合わせに立ち、悪戯っ子のように、口元に笑みを浮かべる林殊。
剣の腕は、すっかり林殊に抜かれたが、それでも思うようにはさせない、と、靖王もまた、口角を上げる。
初めの一手は、互いに知っている。
練習などしなくても、二人の呼吸はぴたりと合った。
二人には、剣舞の型などは無く、好きな様に剣を降り、剣舞を行う。相手が次にどう動くかが、互いに、手に取るように分かっていた。
若き靖王が、すらりと鞘から真剣を抜き、同時に林殊の剣も抜かれる。
動き出す時は、合図など無くとも、呼吸で分かった。
今、長蘇の目の前で、二人は動き出す。
手合わせの様でもあり、剣舞の様でもあり。
型に嵌らない、自由な動きは、見る者の目を釘付けにした。
──流れる様な太刀筋は、美しい弧を描く。
景琰の太刀筋は、本当に素直で美しい。何時までも眼(まなこ)に残り、美しかった。
時折、私は、悪戯に、景琰を本気で斬り付けるが、全て見事に躱(かわ)したのだ。──
懐かしさに、長蘇の心が、甘酸っぱいもので満たされた。
靖王が、赤焔軍の軍営に遊びに来ると、皆にせがまれて、剣舞を披露した。
あの頃の光景が、目の前に蘇る。
月の光に照らされ、靖王と林殊は、激しく遣り合う。剣舞も終盤に近づくと、一際激しさを増した。
二人は鏡で合わせたように、同じ動きを見せた。
どれ程激しい動きになろうと、二人はぴたりと剣先を揃えて、剣を捌いた。
まるで一つの生き物の様だと、皆が驚嘆している。
最後の一振。
見事に決まった。
すると月光は遮られ、靖王と林殊の姿がかき消された。
──急に暗く、、、。
、、、、雲か?。──
長蘇が天を見上げれば、漆黒の大きな龍が、悠々と月を遮り、空を渡っていた。
「龍??。」
龍は、二度三度、長蘇の上を回っていた。
長蘇はその姿を、微笑んで見ていたのだ。
急に龍は、天から長蘇に向かって、急降下した。
長蘇は驚きもせず、避けもせず、龍が来るのを、石の舞台の上で待っていた。
龍は長蘇に直撃して、長蘇を砕いてしまうかと思われたが。
その刹那、龍の姿は飛流に変わり、ふわりと長蘇の前に降り立った。
──飛流、、、景琰を真似たのか。──
飛流はそもそも、龍では無い。
実体は持たず、『魔』という、闇の塊の様なもの。
飛流と藺晨が、石柱で暮らしていた頃は、藺晨の好みに、飛流が姿を変えた。
その姿は、長蘇を主としてからも、変わらなかったが。
金陵の蘇宅に来て、飛流は、靖王を守護するという、『紅い龍』を随分と気に入っていた。
──飛流は自分で、姿を選んだのだ。──
「ん?、、、飛流、酒臭いぞ。
酒を飲んだのか?。藺晨に飲まされたか?。
、、、、あいつめ、、あれ程駄目だと、、。」
「云。」
飛流は上機嫌の様子で、そう言うと、長蘇に抱きついた。
「『魔』退治をしてきたのか?。『魔』は居たか?。」
「『魔』、いないよ。
ぜーんぶ食べた。あははは。」
「、、、ご機嫌だな、飛流。
飛ぶのは楽しいか?。」
「云、楽しいー。」
飛流はそう言うと、もう一度、長蘇を抱き締める。
「蘇哥哥、帰ろう。」
「そうだな、帰ろうか。
迎えに来てくれたのか?。」
「云。」
飛流は嬉しそうに答えた。
飛流の頭を撫でてやると、飛流は更に嬉しそうな、満面の笑みになった。
「蘇哥哥ー、飛ぶのー、気持ち良いー。」
飛流は飛び上がると、忽ち長蘇の目の前で、黒い龍に姿を変えた。
確かに龍は龍だが、恐ろしい眼光は無く、表情もどこかあどけなく、可愛らしさがある。
見た目は子供の龍の様だ。だが、今では、かなり大きな『魔』も退治が出来る。
月明かりがなければ、闇と、黒い龍との、区別がつかぬ程だ。
退治する度に、『魔』を力に替え、少しずつ飛流は成長をしていく。長蘇と承允を結んだ時よりは、その成長は、、微々たるものだったが。
畝りながら飛ぶ飛流を、誰が見つけることが出来るだろう。
幸い、誉王府のほとんどの従者は去り、二人が見られる心配は無い。
二度三度と、長蘇の上を大きく旋回し、心地良さげに飛び回る。
その様子を、舞台の上で見ていて、長蘇もまた、心地が良くなった。
ぶーん、と、また黒い龍が急降下する。
黒い龍は、地面すれすれに飛んだまま、長蘇を両手で抱き上げて、また上空に飛び上がった。
「飛流!。」
驚いた長蘇が、龍の腕にしがみついた。
あっという間に、遥か上空へと。
黒い龍は喜んで、空で宙返りをしたり、急降下したと思えば、急上昇したり、、。
だが、長蘇に、それを楽しむ余裕は無い。
ぎゅっと腕にしがみつく長蘇を、「怖がっている」と感じた黒い龍は、飛ぶ速度を落とた。
無茶の多い林殊は、高い木から落ちたり、崖から落ちたり、、、、と、登るからこそ、落ちるのだが。
藺晨と飛流のいる、石柱にも登って、、林殊は落ちた。
高い所は怖いとも思わぬし、第一、岩や木や、掴まり安定した物に、触れている感覚があった。
だが、この高さはどうだ。
しかも飛んでいる。
そして乱暴な龍の動き。
黒い龍が、ゆっくり飛んでも、長蘇は不安定な感覚には慣れず、体を固くしていた。
しばらく、龍が長蘇を気遣って、ゆっくり飛んだので、その不安さは次第に慣れて、消えてしまった。
心落ち着けて見れば、空から見下ろす都の街並み。
眩いばかりの灯りが溢れる、螺市などの歓楽街。
都の殆どの者が暮らす居住区では、ぽつぽつと灯る明かりに、人々の息吹を感じる。
そしてその奥には重厚な皇宮が聳え立つ。
皇宮の周りには、皇族や朝臣の屋敷。
つい先程まで居た誉王府があった。
他の屋敷より、暗いが灯りは灯っている。
そして、、、、。
「飛流。」
「、、、私は、そこの、真っ暗になっている屋敷で、生まれ、暮らしていたのだ。」
ぽつりと長蘇が言った。