天空天河 四
飛流に長蘇の、悲しみと懐かしみの心が、伝わった。
黒い龍は一度二度、ゆっくりと、林殊が生まれた林府の上を回り、暗い林府の上空で止まった。
仄明るい月明かり。
かつて、赤焔軍主帥として、梁の各地 を平定した林燮の屋敷だった。
月明かりがあるものの、はっきりとは見えないが、幼い頃に遊んだ、楠の植えられた庭。
林殊が生まれた年に植えられて、林殊の成長と共に、楠も大きくなっていった。
林殊が赤焔軍に入った時には、幹回りはまだまだ細かったが、それでも庭の東屋の、屋根を越す樹木になっていた。
あの頃よりも、更に大きくなった楠に、感慨もひとしおになった。
何よりも、荒れ放題だと思っていた、林府の庭が、草花こそ無かったが、雑草も無く、綺麗にされていたのには驚いていた。
昔、十を過ぎた時分、靖王と二人で、罪を犯して封鎖された、朝臣の屋敷へ、忍び込んだ事があった。
屋敷の中は散乱し、庭は茫々(ぼうぼう)と雑草が生い茂り、陰鬱としていて、興味本位で忍び込んだ事を、二人は後悔した。
──十年以上、放置されていた。
相当、荒れているだろうと、覚悟していたが、、、。
、、、、何故?、誰が?
景琰が???、、、、、いや、景琰では無い。
景琰は辺境に追われ、郡王でありながら、軍務でも、都の援軍すら無かったのだ。自分の事で精一杯だった筈。──
驚きと、そして心のどこかが、温もる感じがした。
赤焔事案の情報を探る中で、たまさか、林燮の死を惜しむ声を聞いた。
赤焔軍の兵を、投降させて命を救えなかった。そして陥れられたのだとはいえ、七万の兵を無駄死にせた事は、罪にあたる。
そして表向きは、大逆の罪で、赤焔軍は滅びたのだ。大梁の人々や兵の遺族は、林燮を恨んでいると思っていたが。
だが何と、林燮の死を、惜しむ者の多い事よ。
そして祁王の死も然り。
この事実は、長蘇を泣かせた。
しかし、どこでも話される事でも無く、金陵の都の人々は、林燮や祁王の事には、固く口を噤む。
無理もない、、、長蘇はそう思った。
──景琰、、、金陵の人々は、父を恨んでいると思っていた、、。
だって、祁王と赤焔軍の関係者は、金陵にも大勢いた。家族が赤焔軍の兵だったと言うだけで、数え切れぬほど、処刑されたのだ。
刑場に出来た大きな血溜まりは、刑場の土を、硬く固めてしまったと。
口を閉ざしたのは、恨んでいるからでは無く、取り締まりが厳しくて、口に出来なかったのだ。
口にしたのを、知られてしまえば、捕らえられてしまうのだ。あらぬ難癖を付けられて、酷い目に遭う。
見つかれば、そんな危険があるにもかかわらず、荒れた林府の庭を、整えてくれた。
長い時間を掛けて、少しずつ、綺麗にしたのだろう。
、、、父を偲んで。──
長蘇の目頭が熱くなった。
「飛流、、、、。」
長蘇がそう言うと、黒い龍はひと鳴きし、また上昇をした。
上昇する最中、長蘇は、祁王府にも目を向けた。
祁王府の庭も、綺麗になっていた。
国が没収した屋敷は、大概は、そう時間を置かず、功のあった朝臣に、下賜されるものだが、皇帝は、この二つの屋敷に、手を付ける事が出来なかったのだ。
この事だけでも、皇帝の胸の内が推し量れた。
さっさと下賜して、処分してしまいたいが、かと言って、下賜しても、与えた者を見れば、祁王や林燮を思い出す。
屋敷を処分も出来ぬ。
思い出さぬ様に、皇帝の心の中の、祁王と林燮を封印するには、ただ忘れ、手を付けず、荒らすしかないのだ。
──冤罪だという事を、陛下は知っているのだ。
だから、尚更、赤焔事案は覆すのが難しい。
、、、陛下の心は頑なだろう。
真実なぞ、届きはしまい。──
黒い龍は上昇を続け、月にも届くのかという所まで昇って、止まった。。
足元には、金陵の都の城内が。
その真ん中に、小さな皇宮。
長蘇は、黒い龍に語りかける。
「飛流、『高貴な身分』と言われる人々は、あの小さな囲いの中で、争っている。
皆、その権力争いに、乗り遅れまいと、大梁の民の事はそっちのけだ。
、、何とちっぽけな、愚かしさ。
飛流、見えるか?。
あっちに梅嶺がある。
梅嶺という国境で、私や父が大渝の侵攻から、守っていたのだ。
『赤焔事案』。
全ての始まりは、陛下の即位にまつわる出来事からだ。
陛下は皇子だった頃、皇太子でも、何でもなかった。
帝位には、程遠い所にいたのだ。
それでも当時の皇太子は、皇子だった陛下を排除しようと、謀が巡らされた。謀がそのまま運べば、陛下は先王に死を賜る事に。
この難局を打開しようと、父も、その友、言闕も、阻止しようと駆け回ったのだ。
だが陛下は、誰に相談するでもなく、滑族と手を結び。
この時、陛下は、滑族が守っていた『魔』を得たのだ。
『魔』は陛下と一体となった。
そしてその力で、皇太子を倒し、父である皇帝に、譲位を迫り、そしてその手に帝位を得た。
陛下は滑族に代償を払う事を拒み、そして赤焔軍は陛下の命で、滑族を滅ぼした。
そして、この事を知っているのは、夏江と謝玉。
秘密を握られ、今、陛下は二人の思うままだ。
夏江と謝玉もまた、『魔』と承允を結んでいる。
夏江も滑族の『魔』を得たのだ。
飛流、、、。
陛下と夏江が得た『魔』は、今まで退治した『魔』とは比較にならぬ位に、とてつもなく大きな『魔』だ。
、、、、、、怖くはないか?。」
『無い。』
飛流の返答が、長蘇の心に響いた。
「飛流、頼もしいな、ふふふ。」
長蘇の頬が綻んだ。
龍を頼もしく思うが、大丈夫だろうかという心配と、無垢な龍を利用してしまう罪悪感とで、直ぐに笑みは消えた。
黒い龍は、長蘇を抱いて、また急降下する。
もう、長蘇は怖がってはいなかった。
黒い龍と長蘇は、そのまま蘇宅へと向かった。
忽ち、黒い龍は、蘇宅の中庭へと。
抱いた長蘇を中庭に立たせると、黒い龍の姿は、飛流に戻った。
「、、飛流!!!。
龍になれるのか??。凄いぞ!。
もう一度、龍になって見せろ。」
「!!!。」
突然の藺晨の言葉に、飛流の体が、びくりとする。
庭に面した部屋の中から、藺晨が出てきた。
「初めて見たぞ。
ほら、藺哥哥も乗せて、天へ上がってくれ。」
飛流は長蘇の陰に隠れた。
藺晨は、長蘇の姿をまじまじと見る。
長蘇は乱れた胸元を、急いで合わせた。
「何と、お早いお戻りだ。
てっきり明日の昼頃かと。」
髪も着衣も乱し、長蘇の身に何かあったと思わぬ者は、いないだろう。
「明日の昼だと!!!?。」
藺晨が言った事の意味が分かり、戦慄(わなな)くき、言い返す長蘇。
「何も無かった!!。何もされてない!!!。
藺晨!、下衆な勘繰りは止めてくれ!!。」
「ははぁ??。
胸元と髪の乱れを、何と説明するのだ?。誉王に犯られたのだろう?。んん??。
そんな格好で、外を歩いたのか?。ニヤニヤ」
ぐるりと遠巻きに、長蘇の周りを回って、藺晨は言う。