甘く煌めく
エードは稽古を終えてから作ればよいと、きらきらと赤く煌めくヂェリー液を見つめ、炭治郎は笑った。
虫よけに盥に晒しを被せたら、二人そろって水屋敷を出た。稽古の時間である。
やさしく穏やかで、けれどもどこか濫りがましくもあった空気など、竹刀を握れば微塵もなくなる。
竹刀をかまえて対峙する義勇は、一見細い体躯でありながら、途方もなく大きく感じられる。最終選別を前に炭治郎が斬った大岩よりも、固く大きな巌の如くにも見えた。どれほど努力しようとも、決して切れぬ岩である。
いや、水か。
水面斬りとは言いながら、炭治郎が実際に水面を切り裂けるかといえば、否と答えるしかない。
義勇は大いにたたえられた水面のようだ。いくら炭治郎が打ち込もうと痛手を与えることはできない。炭治郎の剣を受け止め受け流し、形を変えて襲いくる水流である。炭治郎は飲み込まれまいと必死にもがくよりほかない。
竹林から聞こえる潮騒のような葉擦れにまじり、打ち合いのひびきが絶えまなく反響する。それが止んだのは、いったいどれほどの時間が過ぎてからなのか。おそらく一時(二時間)ほども経ってはなかろう。
義勇の稽古は短い時間に集中的に行われる。訪れる隊士が増えれば、また異なる稽古内容になることもあろうが、炭治郎一人きりの今は、ひたすらに対峙する義勇に向かっていくのみであった。
不死川とさして変わらぬ内容ではあるが、大勢で打ちかかるのとは違い、柱と一対一での打ち合いともなれば、一寸たりと気が抜けぬ。
義勇の今日はこれまでの声に、炭治郎はどっと襲いかかった疲労にぺたりと座り込んだ。
全集中の呼吸は取得したが、それでも柱相手に息を切らさずいることはむずかしい。義勇はといえば、平生とまるで変わらず、静かに佇んでいる。秀麗な顔はあくまでも涼しげで、息の乱れなどまるでない。
まだまだてんで敵わない。それがうれしくもあり、悔しくもあった。
「そろそろヂェリーも固まっただろう」
息を整える炭治郎に手を差し伸べ、屋敷に戻ろうと言う義勇の声音には、ほんのわずか、ソワソワとした期待の気配がまじっていた。
なんだかかわいいと思ってしまえば、稽古中は息を潜めていた恋情が、胸の内で騒ぎ出す。
はいと答えて手を取った。ぐっと炭治郎の手を握り締め、疲れた体を引き上げてくれた義勇からは、水の匂いがした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
盥から取り出したぐい吞みのなかで、ふるふると揺れて震えるヂェリーは、赤くきらきらと煌めいていた。
少しばかり緩そうではあるがこれなら上出来であろうと、炭治郎は、義勇と見合わせた顔をほころばせた。義勇もうれしいのだろうか。少しだけ口元が笑んでいる。
エード用の水を汲んでこようとふたたび井戸におもむいて、ついでに全身を濡らす汗を、冷たい水に浸した手拭いで拭う。
大きな巌のようにも見えた義勇だが、上衣を脱いだ姿はやはり細身ではある。だがそれは、鋼の刀身の如き細さであって、頼りなさは微塵もない。
その姿を直視できなくなったのはいつからか。炭治郎にもわからない。
見慣れてもいいほどの日数は、もうとうに経っているのに、義勇の素肌を目にすると、炭治郎の鼓動は速まり居たたまれなさを覚える。
ぞわぞわと総身を走る不思議な痺れや、ずんと重くなる下腹の理由を、炭治郎はまだ知らない。それをもたらすのは義勇だけであることしか、知らない。
義勇の首筋を、汗が一滴(ひとしずく)伝い落ちた。見惚れる視線を無理矢理にも引きはがし、炭治郎は急いで体を拭き終えると、井戸へ鶴瓶を落とした。
水屋敷の井戸は深い。汲み上げた水はキンと冷たく、炭治郎はいつでも、雲取山の雪解け水を思い出す。思い返せばそれは、義勇の匂いに似ていた。
流れる清流は身を切るように冷たいのだが、たしかにそれは春を告げるものでもあった。
清涼で清廉な、雪解け水のような義勇の匂い。手伝おうと傍らに立った義勇から香る、炭治郎にとっては心安らぎ安堵をもたらすその匂いが、たまらなく好きだと思う。
汲み上げた水を持つ義勇に恐縮しながら水屋へと戻り、また二人並び立つ。
義勇がやると言うので卵白を泡立てるのを任せ、炭治郎は、鍋に入れた冷水に砂糖を溶かし、残った果汁を流し入れた。
用意された硝子のコップも市松柄で、炭治郎が初めてこの水屋で調理したときには、水屋箪笥のなかにはなかったものである。ともに食事をとることが増えた炭治郎のためにとは、期待しすぎだろうか。
勝手に熱くなる頬を持て余し、ちらりと義勇をうかがえば、シャッシャッと軽やかな音を立てながら筅(ささら)で卵白をかき混ぜている。常の無表情がやけに真剣に見え、年上の兄弟子をかわいいとまた思う。
美しく強く、果てない高みにいる人に、斯様な感慨はおこがましいと思いはする。だが、ともにいるときの義勇は、ときおりこんなふうに子供じみた姿をも見せてくれるので、炭治郎の胸のときめきはそのたび弥増(いやま)してしまうのだ。
「できたぞ」
ずいと差し出された器のなかで、こんもりと泡立てられたメレンゲが角だっている。積もった新雪のようなそれに思わず目を輝かせ、炭治郎が
「すごいです、義勇さん! きれいに泡立ってますね!」
と褒めれば、義勇は子供のようにムフフと笑った。どことなく自慢げなのは、きっと気のせいではないはずだ。おそらくは子供のころにも、姉に向かってこんな顔を見せていたに相違ない。
あぁ、なんてかわいい人なんだろう。
きっと今、己から立ち昇る匂いは水屋にただよう甘く赤い果実の香りと同じだろうと、炭治郎は思う。恋の匂いが立ち上り、この人を包み込んでいるに違いないと。
けれども鼻が利くのは炭治郎だけであり、目の前のこの人が気づくことはないのだ。
それは寂しく、けれど安堵もする。知られれば斯様な時間は立ち消えて、兄弟弟子として許されたこの近さも、たちまち遠ざかるのであろうから。
悲しみをふっと吐息に紛らせ吐き捨てて、炭治郎は雪のようなメレンゲを匙ですくうと、コップに移したエードにそっと乗せた。
雪といえば、炭治郎が思い出すのは出逢いの雲取山である。
あのときにはこんなふうに穏やかに微笑みあったり、あまつさえこの人をかわいいと思う日がくるなど、想像もできなかった。まったくもって、人の縁とは不思議なものだ。
まさか、恋に身を焦がす日なぞが、自分におとずれようとは。ましてやそれが自分よりずっと大人な兄弟子だなどと、あのころには思いも寄らぬ現状である。
この人の心を得ることができたなら、どんなにか幸せであろう。
思いはすれども、炭治郎はそれを即座に打ち消した。
人の心はままならぬ。己の心ですら己自身どうにもできぬのだ、義勇の心などなおさらに、求めたところで得られるとは到底思えぬ。
幸せなのに切なく、こっそりとため息をついた炭治郎を、義勇が横目でうかがい見ていたのを炭治郎は知らぬ。
二人分のヂェリーを取り出した盥は冷水を入れ替え、残るヂェリーは、土産に蝶屋敷へと持っていくといいとの義勇の言葉に甘える。
ともあれまずは自分らで食そうかと、赤く煌めく苺ヂェリーとエードを盆に乗せ、二人縁側に向かった。