いのちみじかし 前編
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い館内から一歩表に出れば、青空のまばゆさが目を焼く。暗がりから光のなかに出たときの常で、義勇の視界が一瞬、白く染まった。
フフッと、いかにも喜悦に富んだ忍び笑いが傍らから聞こえた。ちらりと視線を投げれば、幸せをかき集めたような顔で煉獄が笑っている。声は抑えているものの、笑みがこぼれるのを止められないといった風情だ。
「今日は本当にいい日だ。冨岡に逢えたばかりか、こうしていつか一緒に来たいと思っていた花屋敷にもこられた。一生忘れられない素晴らしい日だ」
向けられた笑みは、やはりとろけんばかりで、声も多幸感に満ちている。
そういえば、今日は煉獄の誕生日だったか。
先の会話を思い出し、義勇は知らず視線を泳がせた。
どうして自分なぞと行動することに、こんなにも煉獄がうれしそうなのか、義勇にはてんで理解できない。それでも、煉獄が素晴らしい日だと言うのなら、水を差すような言動は戒めるべきだろう。なにせ煉獄は誕生日なのだ。誰からも寿がれるべき、佳き日である。そんな日を、自分の迂闊な言葉や態度で台無しにしてしまっては、申し訳ないにもほどがある。
ちゃんと祝うべきだろうか。だが、どうすればいいんだろう。
煉獄は祝いと思って手をつないだままでいてくれと言ったが、たかがこれしきのことを祝いとするのは、どうにも気が引けた。
せめてなにか気の利いたことでも言えればいいのだが。思ってみても、口下手な義勇には無理難題が過ぎる。
どうにか煉獄が楽しめるような会話を……。
「能」
「ん?」
義勇のつぶやきに小首をかしげ、浮かんだ笑みはそのままに顔を覗き込んできた煉獄に、胸中でしまったと冷や汗をかく。思いついた言葉を考えもせず口にしてしまった。
なんでもないと黙り込むのは簡単だが、それではいつもと同じことの繰り返しになるだけだ。煉獄を寿ぐ気持ちは、義勇にだって十二分にあるのだ。祝いの品など用意がなく、煉獄が喜ぶことをしてやりたいと思っても、見当もつかないありさまではあるが、少しでも楽しんでほしい。
せめて煉獄が興味を持ちそうな会話をと、必死に話題を探し求めたけれど、その挙げ句が、これか。落胆にガクリと義勇の肩が落ちそうになる。だが、落ち込んでばかりもいられない。
「観るだけじゃないのか」
焦る気持ちとは裏腹に、義勇の言葉は唐突が過ぎ、傍からすればやはりそっけない。
けれども、煉獄はそんな義勇の無愛想っぷりなど、まるで気にならないようだ。それどころかいっそう顔をほころばせ、まさしく浮かれているとしか言いようのない声で笑った。
「あぁ、それか。父上から指南を受け始めたころに、全力で止まれというのが、どうにも理解できなくてな。鍛錬の一貫として能を習わされた」
「全力で止まる……」
能が鍛錬になるのかという疑問はさておいて、その文言は義勇にも理解できる。
「俺も、先生によく言われた」
「冨岡もか! あれは、初めて剣を握ったばかりの身には、理解に悩む要求だったな!」
義勇は深くうなずいた。錆兎と二人して意味がわからないと頭を抱えたのも、もはや懐かしい。先生に何度も「違う!」と叱り飛ばされたものだ。
「初めは能がなんの役に立つのか、さっぱりわからなかった。だが、能楽は神事から始まっただけあって、武士のたしなみだと言うからな。実際、習ってみるとなかなかに厳しいぞ」
「そうなのか?」
「うむ! 能の『構え』は、まさしく全力で止まるという行為を体現しなければならない技だ!」
足を止めた煉獄が、じっと義勇を見つめてくる。笑んだままなのに、不思議と真剣さが伝わってくる顔つきだ。
「能は、静止する『構え』に説得力がなければならないと習った。全速力で走りながら全身全霊で止まっている。そんな状態が『構え』だ。だがそれを観客に悟られてもいけない。力みを感じ取られず、何事もなく静止しているように見えなければいけないんだ」
「それがむずかしい」
体感したことがなければ、理解のおよばぬ言葉だったろう。けれど、能を舞ったことなどない義勇にも、その状態の困難さはありありとわかった。実感を伴い打った相槌に、煉獄が強くうなずく。
「あぁ。剣も同じだ。刀を振るうのと同じだけの力で、刀を止められなければ話にならないと、父上によく叱られた! 鬼は卑劣だからな、入れ替わりの術を使う鬼がいれば、仲間の頸を切り落とす羽目にもなるんだぞと。だが、止めるだけでは足りない。刀を止めても振り抜く力はそのまま保て、振りかぶり直す暇などないと心得ろ、止まっていても動いているのと同じ状態でいなければ次の手が遅れる。遅れはすなわち死だ。繰り返しそう叱られた。全力で動いている状態を保ちながら止まるんだと言われても、なかなかできずに苦労したものだ! しまいには拳骨を落とされて、頭がコブだらけになったな!」
「俺も、力任せに刀を振り下ろすたび、びしょ濡れになった」
「ん?」
「先生に滝壺に落とされた」
淡々と言った義勇に、煉獄が破顔した。カラリと明るい笑い声を立てる煉獄は、至極楽しげだ。
「冨岡の育手も厳しいな!」
煉獄には悲嘆などどこにも見当たらない。自分とはなにもかもが異なると思っていた煉獄も、子供のころには同じように悩んだのだと思えば、なんだかこそばゆいようなうれしさを覚えた。
「能を舞うようになってから、少しずつ体の使い方がわかってきた気がする。剣術と違って練達の域にはとうてい及ばない、手遊(てすさ)び程度のものだが、気晴らしにもなるしな。今もたまに舞うことがある」
「そうなのか?」
どこかいたずらっ子めいた笑みで言う煉獄に、義勇の心も浮き立つ。自然とやわらかくなった問いかけに、煉獄はいよいよいたずら小僧のような顔でうなずいた。
「うむ。千寿郎に見られないよう、コッソリとだが」
「弟か?」
聞き慣れぬ名に思わず問えば、煉獄はなぜだか一瞬、盲点を突かれたかのように真顔になった。すぐに破顔し強くうなずく様は、いかにもうれしげだ。
「うむ! そういえば、俺も冨岡に家族の話をしたことはなかったな。すまない、浮かれてつい周知のことのように名を出してしまった。我が弟ながら、千寿郎は本当にいい子なんだ、冨岡も逢えば気にいると思う!」
きっと仲の良い兄弟なのだろう。微笑ましく思っていれば、煉獄はフフッと面映げな笑みをもらした。
「冨岡は俺のことになどなんの関心もないと思っていたが……そうか、俺に弟がいるのを知ってくれていたんだな。ありがとう」
礼を言われる意味が、義勇にはわからない。煉獄がなぜこんなにも幸せそうに笑うのかも。
関心がないと思われていたのは心外だが、では興味があるのかと問われても困る。詮索好きだと思われ避けられたくもない。弟の存在を知っていただけのことをこんなにも喜ばれるなど、なんだか妙に恥ずかしかった。
「見られるのは嫌か」
うまく話をそらせる術など知らず、義勇が返した言葉は、我ながらそっけなく感じられた。けれども、煉獄は気に留めた様子もなかった。
「剣ならば自信を持って教えられるが、舞いは我ながら下手の横好きだからな。兄としては、あれを見られるのは恥ずかしくてたまらん」
作品名:いのちみじかし 前編 作家名:オバ/OBA