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いのちみじかし 前編

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「あれはたしか、俺が十(とお)のころだ。姉に連れられて来たことがある。ここにくるのは、今日で三度目だ。一度目は、覚えていない。三つのときに、両親と姉と一緒にきたらしいが……」
 家族総出できたことは記憶にないが、姉と訪れた日ならば覚えている。脳裏に知らず浮かび上がった記憶は、今も鮮やかだ。空の青さも、風の爽やかさも、姉のやさしい笑みとつないだ手のぬくもりだってすべて、ありありと思い出せる。それが義勇には少しつらい。
 平静を心がけたつもりだったが、義勇の声には、わずかな寂寥がにじんでいた。煉獄の顔がたちまちくもる。
「冨岡のご家族の話は、聞いたことがなかったな。ご両親と姉上は……」
「両親はコレラだ。俺は五つだった」
 それだけで悟るものがあったに違いない。煉獄はそれ以上たずねてはこず、静かにうなずき、ふたたび頭を下げた。
「不躾なことを聞いた。重ねがさね申し訳ない」
「かまわない。……昔の話だ」
 隊士の大半は、鬼に家族を殺されている。義勇もまた、その一人であるに過ぎない。声高に仔細を語り悲しみを吐露する気は毛頭ないが、かたくなに答えるのを拒むたぐいの話でもなかった。
 それでも姉のことを思い出せば、心が揺れる。どれだけ月日が流れても、自責の念は消えない。
 だが煉獄を責めるのは、お門違いだ。いまだ心乱される自分を恥じるだけである。
 と、義勇は不意に思い至ったそれに、ゆっくりとまばたいた。
 煉獄の家族について聞いたことはなかったが、先代炎柱は、義勇が入隊するより前に奥方を病で亡くしたと聞いた。つまりは煉獄の母だ。
 義勇より年若であるのをかんがみれば、母を亡くしたときの煉獄は、相応に幼かったはずである。大切な人を失った状況は異なるが、煉獄もまた、かけがえのない人との別れを幼いうちから経験しているのだ。その気づきは、奇妙な感慨を義勇に抱かせた。
 煉獄はまだ、義勇をまっすぐに見つめている。義勇もまた煉獄の眼差しをひたと受け止め、見つめ返した。

 無言で瞳を見交わしていたのは三分にも満たなかったが、立ち止まったままの男二人が人の流れを邪魔しているのは、間違いない。気づけば周囲から迷惑げな視線が集まっていた。
 これはいけない。ただでさえ帯刀を見とがめられることも多いのだ。政府非公認の組織は、こういうとき厄介だ。
 注目されていることに、煉獄も気づいたのだろう。精悍な顔には苦笑が浮かんでいた。
「このままではほかの客の迷惑になるな。冨岡、君が嫌でなければ、今日のところは俺につきあってもらえないだろうか」
 目元をやわらげた煉獄は、それでもどことなし、緊張して見える。
 緊張? 馬鹿な。煉獄の物怖じしない性格を、義勇はもう知っている。義勇に語りかけてくれるときの煉獄には、いつだって屈託がない。それなのにどうしてだろう。今日はなぜだか、見慣れた煉獄ではないような気がする。
 思った端から、義勇は内心で自嘲した。緊張など気のせいだ。煉獄が自分に対してそんな反応をする謂れはない。
 なぜ自分を誘うのかはわからないままだが、煉獄が固執するからには、それなりの理由があるはずだ。義勇は小さくうなずいた。
 途端に煉獄の顔がパアッと輝く。その笑みに、胸の奥がそわりとさざめいた所以もまた、義勇自身考えもつかない。それでも不快さはどこにもなかった。まばゆい煉獄の笑みに、ただ心が揺れる。

「行こう! 俺は初めてだ、案内してくれ!」

 煉獄の声は弾んでいる。差し伸べられた手が自分の手をつかむのを、義勇はとがめもせずに受け入れた。なぜ手をつなぐのかと問うことも、離せと拒むこともできない。羽織をはためかせて足早に歩く煉獄の背を、呆然と見つめるばかりだ。
 無言のままついていく義勇を、煉獄はどう思っているのだろう。ギュッと握りしめられた手に、義勇の目がパチパチと忙しなくまばたいた。
 幼い子供でもあるまいし、成人男性が手をつなぎあって歩くなど、そうあることではないだろう。けれども煉獄は、ちっとも気にした様子がない。
 もしかしたら自分とは初めてなだけで、ほかの柱たちと行動するときには、手をつなぐことが多いのだろうか。考えた途端、なぜだかチリリと義勇の胸は痛んだ。
 柱の資格などない自分にさえ、煉獄はほかの柱と同様に接してくれる。ありがたいと感謝こそすれ、同じ扱いを悲しむなんて、思い上がりも甚だしい。自分のさもしさが嫌になる。
 けれどもやはり義勇は、手を離してくれとは言えなかった。

 誰かと手をつなぐなど何年ぶりか。最後に手をつないだのは……そうだ、錆兎だ。
 思った瞬間、義勇はまた、喉の奥に大きな塊を詰め込まれたかのような息苦しさを感じた。

 錆兎の手は、煉獄よりもずっと小さかった。自分の手だってそうだ。お互い、子供の手だった。
 煉獄の手のひらは、あのころの錆兎よりもずっと固く、大きい。長年、刀を握り続けてきた者の手だ。義勇の手も、今では錆兎より、はるかに固くなっている。それだけの月日はとうに過ぎた。
 義勇よりも煉獄のほうが、少し体温が高いのだろう。大きくてたくましい大人の手なのに、子供めいた体温だ。いっそ汗ばむほどに熱くすら義勇には感じられる

 誰とでも手をつなぐのだとしても、今この瞬間に煉獄が手をつないでいるのは、自分だ。この熱さと力強さを、今は自分だけが与えられている。

 義勇の心臓がドクリと大きな音を立てた。離さないでほしい。心の片隅に、不意にそんな言葉が浮かぶ。
 なぜそんなことを思うのか。なぜこんなにも自分の鼓動はドキドキとうるさいのだろう。自分で自分がわからずに、義勇の瞳が困惑に揺れた。
 戸惑いが勝る願いは長くはもたず、料金所についたと同時に煉獄の手は離れていった。
 落胆はほんの一瞬だ。二人分と告げる煉獄に、義勇はひとつ深呼吸すると話しかけた。
「払う」
「いや! 俺が無理に誘ったのだから、俺に出させてくれ!」
 攻防にもならないやり取りは、ふたたびしっかと手を握られ終わりだ。
 年下の同僚に支払いを任せてしまうなど、不甲斐ないにもほどがある。けれど、自己嫌悪すること自体、思い上がりでしかないのだろう。煉獄はすべてにおいて上位の存在なのだ。意固地になっても始まらない。そんな卑屈な感情が、多少なりと義勇のなかには存在していた。
 せめてなにか言わなければ。思うけれども言葉は出てこない。己の口下手さを義勇は嘆いた。
 口が重いのは自覚している。義勇が語る言葉は、なぜだか人を苛つかせ、呆れさせもする。けれど、煉獄はいつでも明るく話しかけてくれるのだ。
 君は声が小さすぎだなと笑いはしても、もういいと話を切り上げようとはしない。義勇が返す言葉はいつだって、ほんの短い相づち程度だ。会話が弾んだことなど一度もない。それでも煉獄は見限ることなく、顔を合わせるたび明るく声をかけてくれる。
 煉獄に握られている己の手へと、義勇はなにげなく視線を向けた。自分とさして変わらぬ大きさと固さをした、剣士の手。煉獄の手だ。改めて思い、心臓がトクンと弾んだ。もしかして花屋敷を巡る間中、煉獄は手をつなぎ続けるつもりなのだろうか。先まで以上に湧き上がる当惑は、不可解な甘さを含んでいた。
作品名:いのちみじかし 前編 作家名:オバ/OBA