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いのちみじかし 前編

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 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「姉上ときたときには、どこから見て回ったんだ?」
「……たしか、奥山閣に」
「よし! ではまずは奥山閣だ!」
 花屋敷を象徴する五層の楼閣へと足を向ける煉獄は、義勇の手を離そうとはしない。たびたび義勇を振り返り見る顔には、輝かんばかりの笑みがある。いかにもうれしげで、声も喜々として弾んでいた。

 十二階からなる凌雲閣の威容には及ばぬまでも、鳳凰閣の異名も名高い奥山閣もまた、浅草名所だ。
 幼いころにはフゥフゥと息を切らせて登った五階建ての楼閣の最上階には、以前と変わらず、蓄音機が置かれていた。
 姉ときたときには人が群がり、蓄音機の様子はまるで見えやしなかった。それでも、まるで目の前で人が演奏しているかのように聞こえてくる音楽に、目を丸くもしたし、興奮で小さな胸はドキドキと高鳴った。あの日の衝撃と感動を、義勇は今も覚えている。
 国産の蓄音機が販売されるようになった今では、そこまで物めずらしくもないだろうが、庶民には高嶺の花であるのに違いはない。まだまだ客寄せに一役買っているのだろう、当時より人は少ないが、蓄音機の周りには人垣ができていた。
「人が多くて近づけんな。よく見えん」
「……昔は、まるで見えなかった」
 あのころは大人の背に阻まれて、どんなに背伸びしても蓄音機の姿はちらりとも見えなかった。けれどもう、ほかの観光客から頭一つは優に抜け出るほど、背も伸びた。今では蓄音機の金のラッパもちゃんと見える。
 抱っこしようかと言う姉に、もう大きくなったんだからいいよとブンブンと首を振った自分が、今の自分を見たらなんと言うだろう。こんなに大きくなれるんだと目を輝かせるかもしれない。姉を守れるぐらい大きく強い男になるのだと、無邪気に願っていた幼い日々。遠くへ来た。また思い、義勇はわずかに目を伏せた。

 守れなかった。あんなにも守りたかった人たちは、もういない。

「お、始まるぞ冨岡!」
 煉獄の弾む声で義勇が我に返ると同時に、シィッ! ととがめる声が聞こえ、傍らの煉獄がピシッと姿勢を正した。
 謝罪しようとしたのか口を開きかけたが、また叱られるとでも思ったのだろう、すぐに口を閉ざす。それでも唇は弧を描いていて、横目に見ていた義勇は、沈みかけていた心がフワリと軽くなるのを感じた。
 ほんの少しバツ悪げに義勇に向けられた視線は、それでもワクワクとした気配がほの見える。なんだか子供みたいだ。こんな煉獄も初めて見る。
 キラキラと子供のように目を輝かせる煉獄が傍らにいるだけで、義勇の胸にも、理由の知れない歓喜がわいてくる。甘いのに、泣きだしそうに苦しくもあり、そのくせフワフワとした多幸感に笑いたくもなった。かすかな痛みを伴う不思議な喜びは、ラムネの泡のように心でパチパチと弾けて、鼓動は早まるばかりだ。
 明確に言語化されない感情の渦は、いったいどこからくるものなのか。それでも戸惑いは不快では決してなく、当惑さえもがどことなし心地よかった。
 流れだした西洋音楽は、姉と一緒に聞いた曲とは異なる。以前に聞いたのはオーケストラであったが、今日のレコードはピアノ曲だ。やわらかく穏やかなピアノの調べに、義勇はまたグッと息を詰まらせた。

 ――あぁ、この曲は……。

 記憶が鮮やかによみがえる。枯れはてたと思っていた涙が熱を持って溢れそうになるのを、義勇は唇を噛みしめこらえた。
 西洋の技術への感嘆はあれど、まだまだ聞き馴染みのない西洋的な音色と曲調は、耳に合わぬ者のほうが多いとみえる。出だしこそ観客もワッと沸いたが、すぐになんだか釈然としない顔をしたり、あからさまに顔をしかめる者が出始めた。落胆めいた気配に義勇の胸がシクリと痛んだ。
「きれいな曲だな」
 だから、煉獄のささやきに、義勇は少しだけ驚いた。
「……夜想曲だ。たしか、ショパンのノクターンと、姉は言っていた。姉が弾くときは何度もとちっていたから……ちゃんと聞くのは初めてだ」
 なにげなさを装っても、声はかすかに震えた。義勇にとっては懐かしく、今となっては物悲しくもある曲だ。
 耳によみがえる素人奏者によるノクターンは、こんなにも流暢ではなかったけれど、やさしかった。むずかしいわと照れ笑う姉に、でも俺は姉さんのピアノが一番好きと笑い返せば、ありがとう義勇はやさしいねと、あたたかな腕が抱きしめてくれた。
「姉上はピアノを弾かれるのか。冨岡は上流の出なんだな」
「両親が洋行帰りだっただけだ。母がドイツで買い求めたピアノが家にあった」
 母の形見となったピアノを、姉はひどく大事にしていた。嫁入り道具の一つとして、婚家でもやわらかな音色をひびかせるはずだったあのピアノも、もうない。姉の血にまみれた、小さな古いアップライト。赤く染まった鍵盤が、やさしい調べを生むことは二度とない。

 聴衆をはばかり交わす会話はひそやかだ。つながれたままの手が、ギュッと握りしめられた。煉獄は、無言で前を見据えている。義勇の胸を去来する悲哀など知るわけもないのに、重ねての問いも慰めも口にせず、煉獄はただ強く手を握ってくれていた。
 悲しみが、スッと薄れていく。ピアノの美しい旋律が、やさしく義勇の心を震わせた。
 不思議なものだ。己の覚悟を示す羽織以外には、姉や錆兎の思い出を呼び覚ますものなど遠ざけてきたというのに、煉獄とともにいるだけで痛みは和らぎ、幾ばくかの切なさとともに懐かしく思い出せる。
 義勇は視界の端で煉獄の横顔をそっとうかがった。凛々しい横顔は、ゆるく微笑んでいる。つないだ手の力強さも変わらない。義勇は静かに目を閉じた。少しだけ強く、自分からも手を握り返してみる。
「……一番、好きな曲だった」
 たどたどしくピアノを弾く姉の姿が、恥ずかしげな笑みが、瞼の裏によみがえる。幸せな記憶は、やはりかすかな痛みを伴っていて、罪悪感ゆえか喉の奥には苦さが少し。それでも、今は思い出していたかった。
 煉獄と手をつなぎ合う今ならば、苦しみの底に沈むことなく、やさしい曲に耳をそばだてることもできる。だから大丈夫。思い出しても胸を掻きむしることはない。

「そうか……初めて聞く曲だが、俺も好きだ。君と聞けてよかった」

 煉獄はどんな顔をして言ったのだろう。見たいとの欲求に突き動かされそうになったが、義勇は目を開けられなかった。こぼれ落ちる涙が、このやさしい時間を連れ去ってしまいそうで、まぶたを押し上げることはかなわなかった。
 ひそやかに落とすやさしいため息が、夜の静寂(しじま)にふわりと溶けゆくかのような、繊細な調べ。
 今この瞬間の己が心を音色にしたのなら、まさしくこんな曲になるのかもしれない。
 文雅にはとんと縁がないはずなのに、ガラにもなく感傷的な言葉が浮かんで、義勇はかすかに苦笑した。
 切なくて悲しくて、けれどもどこか心ゆるび、安堵感に包まれるこの心地は、なんなのだろう。遠い日に置き去りにしたはずの幸せという言葉が、胸で揺らめいている。静かに波打つ春の海のような心のさざめきは、きっと隣に煉獄がいるからだ。
作品名:いのちみじかし 前編 作家名:オバ/OBA