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花発多風雨、人生別離足

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 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 静かな縁側で寛三郎をなでながら、義勇は胸に去来する寂しさや幸せを噛みしめた。
 いろんなことがあった。経験した別れは数えきれない。名すら覚えていない仲間たちも多く、記憶に残らぬ者のほうがきっと数は勝る。けれどその想いはつながって、穏やかな日々を過ごす義勇の胸に今も息づいている。
 月明かりすらささぬ闇のなかを駆け、刀をふるいつづけた日々のなかで、喪失感はあれど孤独の底に沈むことなくいられたのは、膝のうえの小さな命のおかげだった。
 寛三郎のやせた体は、まだ温もりを義勇に伝えてくれる。けれどその愛おしい温もりとも、そろそろ別れのときがきたようだ。
 炭治郎と出逢い、その才と心根を信じて決意した選択は、いつしか義勇に人を愛し寄り添いあう日々をもたらした。
 恋をした。激しい波にもまれるがごとき人生のなかで、ただ一度の恋を。いや、その想いはけっして一瞬の花火のようなものではない。来世も、そのまた次の来世も、この魂とともに想いはつづく。永劫変わらぬ恋を義勇は手にしたのだ。
 姉の死が、また、錆兎の死が、巡り巡って義勇を炭治郎に出逢わせてくれた。そして、寛三郎が。寛三郎がいてくれたからこそ、義勇は今ここにいる。炭治郎とともに。
 義勇はやさしく寛三郎のやせ衰えた体をなでた。
 お館様が義勇の鎹鴉に寛三郎を選んでくれなければ、おそらく自分はとうに死んでいたに違いないと義勇は思う。
 ただ一人であれば、自分が死んでも代わりなどいくらでもいると、弱い自分は誰かの盾になるぐらいのことしかできないのだと、無造作に命を投げ出すばかりの戦いかたをしてきたかもしれない。寛三郎が常に近くにいたから、相棒を守らねば、生きてやらねばと、目前に迫る死を斬りはらいつづけられたのだ。
 お館様の采配に、無駄なことなどひとつもなかった。深謀遠慮に頭がさがると微笑みつつ思い浮かべる耀哉の顔は、莞爾(かんじ)として笑っている。
 義勇大丈夫かと、いつも問いかける寛三郎の声があったればこそ、今、義勇はこうして生きているのだ。寛三郎の大丈夫かとの問いに、大丈夫だと答えてやるため、生き延びてきた。姉や錆兎のもとへと逝ける誘惑に、打ち勝つことができた一因が、寛三郎の存在なのはたしかだ。
 今もときおり寛三郎は、義勇に大丈夫かと問いかける。悩み惑ったときには、なぜだか敏感にそれを察し、すりすりとその身を寄せて、大丈夫かと義勇を労わるのだ。
 はたしてそこまでを耀哉が読んでいたかはわからないが、義勇が人を恋うる日がくることを、人として生きることを、真実望んでくれたのに変わりはないだろう。
「義勇……」
 老いたかすれ声が、小さくひびいた。寛三郎がじっと義勇を見あげている。
 どうしたと問うより早く、寛三郎は言った。
「モウ、大丈夫カ……義勇」
 その静かなやさしい声に、義勇の胸を刺し貫いたものはなんだったろう。

 あぁ、逝くのだな。
 おまえは最期まで俺を案じて逝くのだな。

 またひとつ、義勇の腕から大切なものが去ってゆく。けれど義勇が浮かべたのは、涙ではなく笑みだった。
「あぁ、大丈夫だ、寛三郎」
 もう心配いらない、安心しろとの思いを込めて、力強く言ってやれば、寛三郎は幸せそうに笑ったようだ。
 そしてそのまま黒い瞳は閉じられて、すぅっとろうそくの火が消えるように、老いた鴉は息を引きとった。
 穏やかな……凪いだ海のように穏やかな旅立ちだった。


 襖に手をかけたまま、炭治郎は、縁側に腰かける義勇の背中を見つめて立ちすくんだ。
 今日は近所の子供たちがにぎやかにしていたから、このところとみに元気がなかった寛三郎も心なしか元気に見えた。久方ぶりに寝床から出てきて、はしゃぐ童を好々爺のように見ている姿に、あぁまだ大丈夫と思って安堵したのは、ほんの数時間前のこと。
 ここ数日はまったく食欲がなくて心配だったけれど、寛三郎は大丈夫。もうじき生まれる禰豆子のややを、寛三郎も楽しみにしている。元気な泣き声をあげる赤ん坊に、いい子じゃと笑ってくれるだろうと思っていた。
 手にした皿がカタカタと震えた。皿のうえには、寛三郎のために取り置いていた桜桃が光っている。
 つやつやと赤く光る洗ったばかりの桜桃は、いかにもおいしそうで、きっとこれなら寛三郎も食べられるだろうと思ったのに。
 甘い桜桃の香りにまじり、炭治郎の鼻に届くかすかな死臭が、ただ悲しい。こんなときでもスッと伸びた義勇の凛とした背中が、なぜだかとても小さく見えることが、ただただ悲しい。
「泣くな、炭治郎。最期は笑うんだろう?」
 毅然とした、けれども途方もなくやさしい声に、炭治郎はぐっと息をのんだ。義勇は振り向かない。
 ごしごしと涙をぬぐい、はいと答えた炭治郎の唇が、ようよう弧を描いた。
「うん、笑ってやってくれ。寛三郎も喜ぶ」
 義勇はまだ振り向かない。どこまでも穏やかな声で言いながら、義勇も微笑んでいるのだろう。けれどもその瞳にはきっと涙がある。真っ直ぐに伸びた背しか見えずとも、炭治郎にははらりと落ちる義勇の涙が見えた。
 竹林の葉擦れが静かにひびく。アブラゼミの鳴き声がした。今宵は七夕。梅雨どきとはいえ今日はよく晴れている。夜明けの晩(午前1時~2時ごろ)には牽牛と織姫が束の間の逢瀬を果たすだろう。
 昼前には、近所の子らがワイワイとにぎやかな笑い声を竹林にひびかせていた。もうしばらくすれば、炭治郎も七夕飾りを軒に飾るつもりだ。過ごしやすい風が吹く夏の午後。こんな日に寛三郎は旅立った。温和で慈しみ深い老鴉の旅立ちにふさわしい、いい日だと、炭治郎もようやく心から微笑んだ。
 不意に義勇の声がした。
「花発けば、風雨多し……人生、別離足る」
「なんですか?」
「唐時代の漢詩だ。別れを惜しむ惜別の意とも、別れがつきものの人生だからこそ一期一会を大切にしようとの意とも言われる」
 かすかに漂う死の匂いのなか、義勇から発せられているのは悲しみの匂いだ。
 炭治郎は、こんなにも美しく純粋な悲しみの香を嗅いだことがない。怒りも恨みもなく、後悔も不安もない純化した悲しみは、ただやさしかった。
「どういう詩なんです?」
「……君にこの金の杯を勧めよう。なみなみとついだこの酒を、遠慮しないで飲んでくれ。花が咲けば嵐も吹く、人生に別れはつきものだ……まぁ、そんな詩だな」
 静かな声は子守唄のように和らかかった。
 朴念仁とからかわれる義勇が詩歌を誦するとはめずらしい。炭治郎へとつむがれる睦言と同じくらい、その詩は温かく心にひびいた。
「……今夜は酒を用意しましょうか」
「うん……そうだな、そうしよう。おまえも飲むだろう?」
 はいと答えて、炭治郎は踵(きびす)を返した。義勇は炭治郎が隣に座るのを拒まないだろうけれど、長年にわたる相棒との最後の対話を邪魔するのは忍びない。
 明日になったら、隊士たちの墓地に埋葬してやろう。立派な殉死を遂げた鴉たちと同じように、義勇が常々望む場所で寛三郎を眠らせてやるのだ。それまでは、日の当たるお気に入りの縁側で、義勇の膝に抱かれていればいい。義勇の声を寝物語に、幸せそうな寝顔で。
「炭治郎」
 不意の呼びかけに炭治郎は足を止めた。