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年年歳歳番外編詰め

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鱗滝



 鱗滝左近次は悩んでいた。
 自室の文机の上に置かれた天狗の面をじっと見降ろし、ふむ、とうなずく。

 もともと涙もろい自覚はあったが、年経てますます拍車がかかった気がする。
 だが、涙を見せるわけにはいかない事情ができてしまった。
 たいへん将来有望で、かわいい孫たちに対するのと変わらぬ愛情を鱗滝も注いでいる、愛弟子のことである。
 冨岡義勇という名のまだ中学二年生の少年は、三月ほど前にたった一人の肉親である姉を、交通事故で失った。それ以来、人並みの感情を失ってしまったかのように、笑うことも泣くこともできなくなり、日常生活すら覚束ない。
 けれど義勇の元来のやさしさは損なわれはしなかった。常に自身の悲しみよりも鱗滝やその孫たちを気づかう様は、どうにも鱗滝の涙腺を刺激する。
 鱗滝が涙ぐむたび、義勇の無感情な瞳に自身を責める色が過ることに鱗滝が気づいたのは、半月ほど前のこと。
 これではいけないと涙をこらえるようにしているものの、ふとした瞬間に涙ぐむ自分がいて、義勇はそのたび気づかわしげな眼差しを鱗滝に向ける。鱗滝が涙ぐむ原因も大概は義勇にあり、タイミング的にどうしたって気づかれてしまうのだ。
 自分から食事をとった。学校に行けるようになった。孫たちの頭を撫でた。そんな些細な出来事一つひとつに、どうにも涙腺がゆるむ。
 しかし、これではいけない。そのたび義勇の悲しみに満ちた心に負担をかけるのだから、なんとかしないわけにはいかないのだ。

 そこで、目の前の面である。

 鱗滝の趣味は木彫りだ。仕事や剣道の合間にコツコツと、面だの人形だのを彫っている。
 この天狗の面も以前鱗滝が彫ったものだ。我ながら良い出来だと鱗滝は思っている。
 若いころに、柔和すぎる自分の顔が試合相手になめられがちなことに悩んでいた鱗滝は、まだ健在だった妻にいっそ天狗の面でも被ろうかと言って、笑われたことがある。まぁ、当然だろう。天狗の面を被った上にどうしたら剣道の面をつけられるのかと、自分でも思う。
 しかたなくその案は断念したが、ちょっとだけ未練はあった。見れば未練を思い出すので、長いことこの天狗面は押し入れにしまい込まれていた。
 ちなみに面などなくとも、柔和な笑みを絶やさぬまま鬼神の如き強さを誇った鱗滝は、剣術界では陰で笑顔魔神などと呼ばれ恐れられていたのだが、鱗滝自身はそれを知らない。

 それはともかく。
 今こそこの天狗面の出番ではないだろうか。
 日常生活で被るのであれば、面の上に剣道の面をつけるという難点は気にせずともよい。ようは涙を義勇に見られなければいいのだ。
 たびたび彫る狐面でもいいが……まぁ、結局のところ己の未練ゆえである。だって天狗は格好いいじゃないか。
 錆兎や真菰は、祖父である鱗滝ですら、この子たちは本当に幼稚園児だろうかとときおり遠い目をしてしまうぐらいには大人びているので、怖がりはしないだろう。義勇も怖がりなたちではないうえ、驚いてくれるのならそれはそれで感情が動いたということだから、そう悪い結果にはなるまい。

 よし、と鱗滝は意を決すると、面を手に取り顔に当てた。

 グッと頭の後ろで紐を結ぶと、なんとはなし気分が高揚する。義勇の姉の事故以来、こんな高揚感は久しくなかったなと思う。
 視界に問題はないようだし、つけた感じを見てみようと思ったが、生憎と鱗滝の自室には鏡がない。どうせなら洗面所の鏡ではなく道場にある姿見で見てみようかと、鱗滝は自宅に隣接する剣道場へと向かった。
 今日は日曜。子供たちは休日には道場で過ごすことが多い。
 姉たちから貰った竹刀を手放さなくなった義勇は、今も素振りだけは欠かさない。打ち合い稽古こそいまだできないまでも、竹刀を振る義勇は以前のように凛とした覇気を見せるので、錆兎や真菰もつられて真剣に稽古に挑む。
 いや、正しくはいつも以上に、か。鱗滝の贔屓目抜きに孫たちは稽古熱心だ。
 道場に近づけば、今日も子供特有の高い掛け声がひびいてくる。
 さて、子供たちはどんな顔をするだろうと、年甲斐もなくワクワクとした心持ちで、鱗滝は道場の扉を開けた。

「爺ちゃん、遅…い……」
 振り返った錆兎の声が小さく尻すぼみになったのに、鱗滝は、はて? と目をしばたかせた。
 錆兎と真菰が驚きに目を丸くしているのはいい。義勇も無表情ながら小さく目を見開いている。想定通りでうれしいかぎりだ。
 だが、すぐに駆け寄ってきて質問攻めになるか凄い凄いと興奮するかと思っていたのに、錆兎も真菰も鱗滝を凝視したまま、身動き一つしないのは一体どういうわけなのか。
 しかたなく声をかけようと鱗滝が一歩足を踏み出した途端。

「ぎ、義勇! 俺が守ってやるからな!」
「だ、大丈夫だよ! こ、こ、怖くないからねっ!」

 叫ぶように言って義勇の腰にしがみついてしまった孫たちに、鱗滝のほうがうろたえてしまう。
 小さい体をぶるぶると震わせ、決して鱗滝のほうを見まいとするかのように義勇にギュウギュウしがみついているあれは、本当に錆兎と真菰か?
 いや、まさか。そんじょそこらの小学生どころか、今どきの中高生よりもずっと肝が据わって大人びている孫たちが、よもや天狗の面に怯えるなど……。
 錆兎たちもパニックだろうが、鱗滝も混乱していた。ガクブルと震える孫たちと、常日ごろの孫たちでは、あまりにも鱗滝の認識とは隔たりが大きい。

 ううっと泣くのをこらえる小さな声だけがひびく沈黙の道場で、鱗滝は呆然としていた。
 と、黙って錆兎たちにしがみつかれるままになっていた義勇が、ゆっくりとしゃがみ込み、錆兎と真菰をぎゅっと抱きしめた。
 二人を腕に囲い込むように抱きしめる義勇に、錆兎と真菰もいっそう強くしがみつく。
 ぷるぷると小さな体をより小さく縮こまらせて震えている孫たち。それをぎゅっと抱えている愛弟子。

 なんということだ。かわいい孫と愛弟子が肉団子になってしまった……!!

 まったくもってよもやの出来事である。
 一昔前に猫を鍋に入れる写真が流行ったと記憶しているが、目の前の子供たちを鍋に入れるほうがよっぽどかわいいのではなかろうか。いや、かわいい。断言できる。

 わしの孫と弟子のカワイイがすぎる!!

 思わず職場であるキメツ学園で耳に入る若者言葉が浮かぶくらいには、鱗滝も混乱していたのだが、つっと顔を上げた義勇の眼差しが伝える意思に、ハッと我に返った。

 なんで苛めるの?

 たしかに義勇の視線はそう言っている。さすがに義勇は目の前の天狗が鱗滝だと理解しているようだが、だからこそ鱗滝はいたたまれない。いや、苛めたいわけではないのだ、よかれと思ったのだと、言い訳しようにも言葉がない。なにせ、天狗面のチョイスは鱗滝の未練ゆえなのだ。

 ので、鱗滝はそっと音もなく後ずさり、静かに道場を去るしかなかった。
 作戦は失敗である。やはり涙もろさは自分の力で克服するしかないようだ。
 そうだ、錆兎にも常日頃から言い聞かせているではないか。男ならば自分の境遇など自身の力で乗り越えろ、と。
作品名:年年歳歳番外編詰め 作家名:オバ/OBA