年年歳歳番外編詰め
天元 11歳
新作を描きあげたばかりのスケッチブックをしげしげと眺めていた天元は、ようやく満足げにうなずいた。今回はなかなかいい出来だ。色の取り合わせに悩んだけれど、これで正解。派手でいいねぇと、天元はニヤリと笑う。
さて、次はどんなモチーフにしようか。わくわくしながらスケッチブックのページをめくったとき、ノックの音がひびいた。
素早く画材の上に布をかけ、机の引き出しにスケッチブックをしまい込む。代わりに参考書を広げたと同時にドアが開き、弟が顔をのぞかせた。セーフ!
「兄さん、父さんが呼んでる」
「あぁ? 俺はなんにもしてねぇぞ」
帰宅してから今の今まで天元は自室から出ていない。ずっと描きかけの絵にかかりっきりで、父に小言を言われるような覚えはなかった。
「お客様。言葉づかい気を付けて」
声音も視線も冷め切った弟の言葉に、チッと舌打ちする。
二つ下の弟は、顔だけは天元によく似ている。だが似通っているのは顔立ちだけ。表情豊かな天元にくらべ、弟はといえば、表情筋が活躍するのは父の客の前だけで、家のなかではまったくの無表情である。言葉にも無駄がなく、必要なこと以外話す理由などないだろうと言わんばかりだ。
学校では相手ごとに表情を使いわけて、それなりに子供らしくしてみせているようだが、そんな必要のない自宅では、感情を表に出すことさえ無駄だと思っている節がある。
天元は、ドアの前に立つ弟の感情をそぎ落とした冷たい顔を眺め、げんなりと肩を落とした。
我が弟ながら親父そっくりで嫌になる。顔は天元と同じく母譲りの秀麗さだが、中身はまるっきり父のコピーだ。
天元は地元では有名な代々続く資産家の長男だ。曽祖父の代からは政界にも進出している。亡くなった祖父も市議会議員で、父はその跡を継ぐ形で何期か当選を続け、今は県会議員だ。そろそろ国会への進出を考えているらしく、天元たちにも品行方正を求めてくる。
曰く、もめ事を起こすな。何事にも地味に、悪目立ちはするな。しかし人に埋もれるな。常に人の上に立つことを意識せよ。文武両道を旨とし成績を残せ。
ド喧しいわっ!!
べつに父がどんな野望を抱こうとかまわない。天元にまでそれを求めさえしなければ。
いくら親子といえども、自分は父の所有物でもなければ、ましてや父のコピーではないのだ。父が求める理想の子供象など知ったことか。
父は母に対しても天元たち同様に政治家の妻としての理想像を求め、快活だった母は、いつの間にか暗くうつむきがちになり、他人の前でしか笑みを見せなくなった。
明るい笑顔もたあいない日常会話もない家庭。リモコン操作のロボットのように、父の定めた言動を行ってみせるだけの家族。
それが家庭円満を謳う宇髄家の本当の姿だ。
「早くして」
それだけ言い残しドアを閉めた弟は、父の支配をなんとも思っていないようだ。もはや自我などないようにすら見える。
先ほどまでの上機嫌など消え失せて、天元は、苛立ちのままにまた舌打ちした。
父にとって有益な客が来るたびに、兄弟は客の前に引き出される。家庭人としても最上の人物だと思われるために、父は天元たちに優秀で理想的な子供を演じさせるのだ。
じつに将来が楽しみなお坊ちゃんたちだと客にお愛想を言わせるためだけに、天元は笑いたくもないのににこにこと笑ってみせなければならない。まったくもって馬鹿らしい。
だが、行かなければ母が責められる。お前の教育が悪いと父から説教されるたびに、母のなかから柔らかななにかが削られ壊され消えていく。今ではもう、天元の描いた絵を見て上手と笑ってくれることもない。
しかたねぇな。天元はため息とともに立ち上がり、部屋を出た。父の求める馬鹿馬鹿しい三文芝居をするために。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
弟と並んで立つ天元に、やぁ、と笑いかけたその人は、今までの客とはどこか違っていた。柔和な笑みと、心地好い声。けれどただ温和なだけの人物ではないはずだ。滲み出るようなカリスマ性をその人物から天元は感じずにはいられなかった。
「キメツ学園理事長の産屋敷耀哉さんだ。ご挨拶なさい」
産屋敷をぼぅっと見ていた天元は、尊大な父の声に意識を引き戻され、あわてて取りつくろった笑みを浮かべてみせた。
天元と弟が続けて自己紹介すると、産屋敷はにこやかに二人を見つめながら質問してきた。その声に、やっぱり頭のなかがふわふわとするような心地好さを感じる。
「天元は小学六年生のわりにはずいぶんと体が大きいね。なにかスポーツでもしているのかな?」
「合気道をしているんですよ。これでなかなか才能があるようでしてね。先の大会でも準優勝でした。そうだな? 天元」
天元が答えるより早く笑って答えた父に、天元は冷めた反感をおぼえた。準優勝の『準』に責める色を感じ取ったのは気のせいじゃないはずだ。大会成績を問われて答えたときに、優勝じゃないのかと顔をしかめられたことを、天元は忘れてはいない。
だが、顔にはそんな反発は出さない。褒められてはにかむ謙虚な少年の笑顔を作って、次は優勝できるようにがんばりますと元気な声で答えてみせる。
猿芝居だ。自分は猿回しの猿でしかない。ああ、息が苦しい。溺れそうだ。
「凄いね。将来は武道の道に進むの?」
「まさか。心身を鍛えるためにやらせていますが、このまま合気道を続けたところで、将来的な成功を得られるとは思いませんよ。天元は私の地盤を継ぐ政治家にします。合気道は趣味ですね」
勝手に決めるなと叫びたい。政治になんて興味はない。俺の将来は俺が決める。将来的な成功? そんなものいらない。俺は、俺は……!!
カッと身の内を焼く熱は、けれど表に出る前に冷めた。
反論してどうなる。反発したところでどうにもならない。母が責められるだけだ。
どれだけ心のなかで父を拒み反発を繰り返そうと、現実には天元は父に逆らえない。天元の溺れそうな苦しさなど、誰も気づいてはくれない。父の望む理想の子供としての天元しか、人は求めてくれない。天元自身の望みも夢も、塵芥(ちりあくた)のように払い除けられておしまいだ。
「いえ、私は貴方ではなく天元に聞いてるんですよ。天元、君自身はなにになりたいのかな?」
昏(くら)い水底に沈んでいくような息苦しさのなかで聞こえたのは、そんな声。
それはカンダタの目の前に降りてきた蜘蛛の糸のように、細く光り輝いている。掴んでいいのか。救われてもいいのか。葛藤のなかで、天元は少し震えながら口を開いた。
「あの、俺は……っ」
「天元!」
強い声に阻まれて、天元の言葉は喉の奥で止まって消えた。
「おまえ、まさかまだくだらない絵を描いてるんじゃないだろうな。小学生とはいえ、おまえは宇髄家の長男なんだ。そろそろ将来のことも考えなさい」
蔑むように言われ、天元はびくりと肩を震わせた。
咄嗟には答える言葉を見つけられなかった天元に、父は呆れたと言わんばかりのため息をつく。