年年歳歳番外編詰め
絵を描くことを許してくれとは言わない。言っても無駄なことぐらいわかってる。だから大人しく従ってるじゃないか。お前の言う通りに生きてやってるじゃないか。それなのに、密かに絵を描くことすら奪おうとするな。絵を描けなくなったら、俺は本当に俺じゃなくなる。弟みたいに、ただのコピーになっちまう……っ!!
焦燥と怒り、消失への恐怖、叫び、喚いて、すべて吐き出してしまいたい。それでも天元が感情を抑えたのは、母への思慕ゆえだ。これ以上母を苦しめるわけにはいかない。それだけが、天元を戒める鎖だった。
母が父をみかぎってくれたなら、自分も自由になれるけれど。母はもはや唯々諾々と父に従うことしかできないから。歯向かう強さをもう持てないから。
己を抑え込んだ天元を見てなにを思ったのか、父は弟に視線をやり顎先でドアを指し示した。それだけで父の意を酌み退出する弟を、気持ちが悪いと天元は苛立ちとともに思う。
完全な父のコピー。なんて哀れで、なんておぞましい、自分の弟。
自分は決してそうはならない。母が苦しむから、悲しむから、従ってみせているだけだ。
ぐっと唇を噛んだ天元は、じっと自分を見つめる視線には気づかなかった。
五分とかからずに聞こえたノックの音に続いて、弟が母とともに部屋に入ってきて、天元は思わず息を飲んだ。
また母を責める気かと思わず眉を怒らせたが、母の手にある物に気づき、天元の顔から一気に血の気が引いた。
「天元、あなたまだこんなものを描いていたのね」
咎める母の声と、掲げられたスケッチブック。眉をひそめて首を振る母。無表情に佇む弟。尊大さを隠そうともしない父。
全部が芝居じみている。
「こんなただ絵の具を塗りたくっただけの変な絵ばかり描いて……あなたにはもっとやらなければいけないことが沢山あるでしょう? どうしても絵を描きたいなら、せめてもっとまともな絵を描きなさい。これじゃお父様が恥をかいてしまうわ」
嘘だ。そう思った。なんで、とも思った。
耳によみがえる母のやさしい声と、非難のひびきで放たれた目の前の母の声が、あまりにも違い過ぎて。
天元の絵を見ても母が笑ってくれなくなったことは、もう諦めている。けれど、まさかすべてを否定されるなんて。
『凄いねぇ、天元にはこんなふうに見えているのね。天元が見ている世界はとってもきれいね』
そう言って笑ってくれていたのに。いつだって、笑ってくれたから。天元を抱きしめて、笑ってくれたから。母が与えてくれたそんなやさしい笑みを、言葉を、全部覚えているから。
だから。だから俺は……!!
絶句して震えた天元の視界の隅、父の冷たい顔が小さく嘲笑を浮かべたのを、天元は見た。
そうか。そんなにも俺から希望も救いも奪いたかったのか。そこまで俺の自我は邪魔なのか。
ぐらりと地面が揺れたような気がする。ガラガラと崩れて、昏い水の底へと沈んでいく。
もう、なにを守っていたのかさえ、わからない。沈んで、溺れて、息もできない。
「天元、少し私と話をしようか」
不意にかけられたその声は、決して大きくも強くもなかった。けれど、その場を支配する力を持っていた。
天元のみならず、父たちもハッと覚めたような顔をして、視線をその声の主へと向けた。黙って一同を見つめていたその声の主は、穏やかな笑みを絶やさぬまま、ゆっくりと立ち上がった。
「産屋敷さん、申し訳ありません。お恥ずかしいところをお見せしまして……」
「お気になさらず。それより天元くんと話をしたいのですが、少し外に出てもよろしいですか? あまり遅くならぬように送り届けますので」
狼狽を押し隠しながら言う父に対する産屋敷の声は、あくまでも静かで穏やかだ。
「いや、それは……」
「ああ、そうそう。先ほどのご提案ですが、前向きに検討させていただこうと思います」
父に最後まで言わせることなくにこやかに告げると、産屋敷は父の答えを待つことなく天元に微笑みかけた。
「さぁ、行こうか。天元」
その微笑みと柔らかな声に、天元はただうなずいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「君のお気に入りの場所はあるかい? そこで話をしたいな」
微笑みとともに言われ、天元は産屋敷を伴い近所の神社へと足を運んだ。
細く急な階段を上ると、木々に囲まれた小さな社がひっそりと建っている。
「こっち、です」
鳥居をくぐることなく木々の合間を縫って社の裏手に回る。やがて木立が途切れて、視界が開けた。
「ああ、これは凄いね。いい眺めだ」
産屋敷の声には真実感嘆のひびきがあった。
視界を埋める青空。流れる雲。遠く見える山の稜線。ミニチュアのような家々。全部が天元のお気に入りだ。
誰にも教えたことのない秘密の場所に、なぜ産屋敷を案内しようと思えたのか、天元にはわからない。産屋敷に逆らう気力もなかったのか、それとも、産屋敷に見てもらいたかったのか。今はなにも考えたくなくて、天元はぼんやりと目の前の光景を見ていた。
いつもなら心が晴れるお気に入りの光景も、今日は天元の心になんの感慨ももたらさない。ここでならいつでも自由になれたのに、今は縛られたまま溺れていく感覚がぬぐえなかった。
「君のお気に入りの場所は素敵だね。とても自由で、楽しさと明るさに満ちている」
柔らかい声に思わず視線を上げる。小学生にしては上背のある天元は、大人の産屋敷とくらべても背丈はたいして変わらない。それでもなぜだか産屋敷の姿は大きく見えた。
「ねぇ、天元。君が一番望むものはなにかな? 聞いているのは私だけだ。ほかの誰も聞いてなどいないよ。君が本当に望むことはなんだい?」
お釈迦様の蜘蛛の糸がまた降ろされた。自分はそれなら罪人だろうか。父の意に逆らい母を苦しめる咎人(とがびと)か。ならば、この糸にしがみつき登っても、行きつく先はやっぱり水底なのではないだろうか。
だって、どうしたって自分は逃げられない。少なくともこれから数年は。父に反発し出奔するには、天元はまだ幼い。同年代の子供にくらべれば世慣れている自覚はあるが、しょせんは小学生だ。少なくとも働ける年までは家にいるよりほかない。
それでも。
「俺は……俺でいたい。誰かのコピーじゃなくて、猿回しの猿じゃなくて、俺は俺でいたいっ!!」
絞り出すように小さく叫ぶ。
絵を描いているときだけは、天元は自由になれた。スケッチブックの白い空間で、天元の心は自由に遊び、踊り、跳ね、飛ぶ。鳥のように、魚のように、風のように。それは天元の心の広さそのものだ。目に見える事象そのものよりも、心が捉えた色を、きらめきを、天元は白いページに描きだす。だから絵を描くのがたまらなく好きだった。
世間体もくだらない他人の噂や陰口も、弟の冷めた視線や父の支配も、そこにはおよばない。派手に、楽しく、おもしろく、自由に! 爆発するような衝動を、絵という形で天元は描き表す。
天元が自分でいられる唯一の手段が絵だ。自分を消したくないから絵を描いた。描き続けた。
母を守るために言葉や行動は閉じ込めたけれど、絵を描くことだけはやめられなかった。きっと母も本心ではそれを望んでくれていると思っていたのに。