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いったいなにが起きているのでしょう。わからないことばかりでしたが、それでも獅子は泉へと近づいていきました。ふと視線を下げれば、泉にぼんやりと見慣れぬ影が映っています。そこに映っていたのは、黄金と真紅がまじった髪をした人の姿でした。若く精悍な男です。
これが俺か。グルッと驚愕の唸りが獅子の喉から漏れました。姿は人に変わりましたが、獣であることに変わりはないのでしょう。手には名残のように鋭い爪が、口には大きな牙がありました。
これではやっぱり魚を傷つけてしまうかもしれない。獅子は躊躇し、ジリッと後ずさりました。そのときです。身じろぎ一つせず獅子を見つめるばかりだった魚が、ゆるりと腕を持ち上げました。
おいでと言うように魚の白い腕が広げられ、獅子を誘います。切なげにはくりと動いた口からは、言葉は出てきませんでした。魚もどこまでも魚でしかないのでしょう。言葉は話せぬようでした。それが悲しいのか、魚の瑠璃の瞳からはポロポロと、涙の粒が浮かんでは落ちています。
溢れる涙に胸が詰まり、獅子は我知らず泉に走り込んでいました。バシャバシャと水音を立てて魚に近づき、無我夢中で魚を抱きしめます。初めて触れた魚の肌はひやりと冷たくてみずみずしく、しっとりと柔らかでした。
お願いだ、泣かないでくれ。願いを込めて獅子が魚を見つめれば、視線が絡みあい、魚の唇が薄く開かれていきます。そっと触れあわせた唇もひんやりとしていて、初めて口にしたときの泉の水よりずっと、獅子にとっては甘く感じられました。
獅子の命はもう残りわずか。朝には果てるだろう命です。ならば一夜(ひとよ)の奇跡に感謝し、ただ一つの願いを叶えようと獅子は魚を抱き上げました。魚も同じ気持ちでいてくれるのでしょう。獅子の腕に逆らうことなく、それどころか、しなやかな腕を獅子の首に回してくれさえしました。
涙に濡れた瑠璃の瞳がやわらかくたわみ、獅子の胸が痛くなるほどにやさしい微笑みが、魚の白い顔に浮かびます。大きすぎる喜びが獅子の瞳にも涙を誘い、獅子も愛おしさを込めて微笑んでみせました。
夜はまだ、始まったばかりでした。
月は煌々と光っています。朝はまだ遠く、枯れた草原には獅子と魚以外には誰もいません。生き物のいない草原に聞こえるのは、熱い風が枯れ草を揺らす葉擦れと、二人がもらす熱い吐息のかすかな響きばかりです。
膝の上に乗せて抱きしめた魚の肌は、やがて魚自身の汗に濡れていきました。浮かび上がる小さな汗の珠は、月明かりを浴びて仄白く光っています。おとぎ話に聞く深海に眠る秘宝のようだと、獅子は自分の腕のなかの宝物にやさしく、とびっきりやさしく、触れました。魚の小さな唇から溢れる吐息は不思議に甘く、獅子は魚の唇に、肌に、何度も口づけせずにはいられませんでした。一滴すら逃したくないと滴る汗を舐め取る獅子の舌に応えるように、魚もぎこちない手付きで獅子の髪をなで、幾度も獅子の頬に口づけてくれました。
どれだけ夢中になっても、獅子は、魚を傷つけたくはありません。自分の爪が、牙が、魚の体に一筋の傷もつけぬよう、獅子はただひたすらにやさしく魚に触れました。白い肌をそっとなで、やさしく舐めあげ、甘く歯を立てるたび、魚のしなやかな白い体がビクンと震えて跳ねます。
獅子の体はどんどんと熱をおび、獅子の肌にも汗が流れ落ちました。互いの肌を濡らすのはもう、泉の水ではなく互いが流す汗ばかりです。どれだけポロポロと涙を落とそうと、魚はそれでも微笑んでいてくれました。
その真珠のような涙をそっと吸い取りながら、獅子はこの上なく幸せでした。もう二度と草原を駆けることはできず、魚とも別れることになりますが、それでも獅子は幸せで、ただ幸せで、泣きたいぐらいの喜びに満たされていたのです。しっかりと抱きあう二人を照らす月や星々も、恋の成就を祝福してくれているようでした。
灼熱の太陽に照らされる昼よりもずっと暑い夜は、静かに更けてゆきました。
魚を抱きしめたまま眠ってしまった獅子が目を覚ましたのは、真っ赤な朝焼けが草原を染めるころでした。
腕のなかに魚がいないことに気づいた獅子があわてて辺りを見回すと、赤く染まった泉にプカリと浮かぶ魚の姿がありました。瑠璃色の魚は白い腹を見せ、ただプカプカと浮いています。
総毛立った獅子の大きな口から、驚愕と悲嘆の咆哮がほとばしり出ました。
バシャンッと水しぶきを上げて泉に飛び込んだ獅子の体は、獣に戻っておりました。もう抱きしめる腕はありません。必死に鼻先で魚の体をつついてみても、魚はただゆらりと揺れるだけです。いつものように長いヒレをひらひらと振って、優雅な姿で泳いではくれません。瑠璃の鱗もどこか色あせて見えます。
燃え立つような朝焼けに、獅子の嘆きがとどろきました。
もう、獅子にもわかっておりました。奇跡の夜はきっと魚が願ったことなのです。赤獅子に伝えられるのと同じく、魚にも禁呪が伝わっているのでしょう。獅子よりも先に、魚は禁呪によって命を使い果たしたに違いありません。
魚を生き返らせてくれと願うことはできませんでした。命は天が定めたものです。どれだけ願おうと、失った命を取り戻すことはできません。
獅子は、弱りきった体に残る力のすべてで吠えながら、それでも天に向かって呪言を唱えました。
願う言葉はただ一つ。魚が最期に願った望みが叶いますように。ただ一心に、獅子はそれだけを願いました。
魚が禁呪に願ったのはきっと、獅子の願いを叶えてほしい。ただそれだけだっただろうと、獅子は信じて疑いませんでした。
禁呪は天に背く願いを叶えることはありません。獅子の死はもはや逃れられぬところまできていました。獅子の延命を願ったところで叶うことはないのです。ならば昨夜の奇跡は、魚が己の命をかけて獅子の願いが叶うようにと願ってくれたからに違いありません。
だから獅子は、ひたすらに魚自身の願いを、望みを、どうか叶えてくれと願い祈りました。自分の残りわずかな命で購えるものならば、いくらでもこの命を投げ出そう、だからどうか魚の願いを叶えてくれと獅子は祈ります。まだ天空に残る月に、静かに消えていく星々に、地平を染める太陽に向かい、命果てた魚の幸せだけを願って祈りました。
抱きしめる腕をもたぬまま、魚の亡骸に寄り添い水底に沈むまで、ずっと。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その泉はとある草原にポツリと存在しておりました。
ほんの小さな泉でしたが、いつでも冷たい清水が満々と湧きいでている泉です。近くに住まう動物たちはみなこの泉で乾きを癒し、つかの間の涼を求めるのです。水はどこまでも澄んで、空を写して青々としておりました。
泉には、魚が一匹棲んでいました。瑠璃色の鱗がきらきらと光る、たいそう美しい魚です。
魚は泉に動物がくるたび、仲良くなれないだろうかと岸の近くを泳ぐのですが、陸の生き物である動物たちには、どうしたって近寄れません。襲われかけることもあります。
一人ぼっちの魚は、仲間や家族とともに泉に訪れる動物たちを、羨ましそうに見つめるばかりでした。