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魚は獅子を呼び止めようと、いつもと同じに跳ねてみせようとしました。ところがなぜだか体がひどく重たくて、空(くう)に飛び上がることができません。なのに視界はいつも以上に高く、獅子の後ろ姿がやけにはっきりと見えました。獅子のすがたはいつでも、水のなかからではゆらゆらと揺れて、水から出れば瞳が乾いてやっぱりぼやけて見えるばかりだったというのに、どうしたことでしょう。
戸惑いながらも岸へと近づこうとした魚は、ようやく自分の姿も変わっているのに気づきました。いつのまにか魚は二本の足で、小さな泉の真ん中に立っていたのです。揺れる水面にぼやけて映る魚の姿は、獅子と同じく人の形をしていました。
ひらめいていたヒレはしなやかな四肢に、瑠璃色の鱗で覆われていた体は、どこもかしこも白い肌へと変わり、しっとりと濡れていました。
この姿なら、獅子に触れられる。獅子を抱きしめることもできる。喜び勇んだ魚は必死に獅子を呼び止めようとしましたが、声は出ませんでした。立つことに慣れぬ足がひどく痛みます。空気にさらされた目も痛いほどに乾いて、ポロポロと涙がこぼれました。
痛む足で魚がよろりと一歩踏み出すと、パシャリと水音が響きました。それを聞きつけたのでしょう、獅子はゆっくりと振り返ってくれました。
こちらを向いた金と朱の瞳が、丸く見開かれるのが見えました。姿はまるで違っていても、その瞳は獣である姿のときとちっとも変わらず、やさしさと強さに満ちた輝きを放っています。
どれだけやせ衰えても精悍でたくましかった獅子の体躯は、人の姿になってもやっぱり魚の目には美しく、黄金と真紅の髪はお日様のように輝いて見えました。獅子の口元には名残のように、大きな牙がのぞいています。大きな手には鋭い爪がありました。人の姿になろうとも、獅子もまた獣であることになにも変わりはないのでしょう。魚はそんな獅子の姿がなぜだかとても誇らしく、胸が高鳴るのを感じました。
ポロポロとこぼれ落ちる涙もそのままに、魚がじっと獅子を見つめていると、獅子が少しふらつきながら近づいてきました。けれども獅子は、泉まであと一歩というところで立ち止まると、なぜだか悲しげに顔を歪めて後ずさりしてしまったではありませんか。
やっと触れられるのに。お願いだ、行かないでくれ。魚はヒリヒリと痛む腕をゆっくり上げると、震えながら獅子に向かって広げました。
泉に吹く風は夜になっても暑く、魚の肌を痛めつけます。それでも魚は痛む足で立ったまま、ひりつく腕を差し伸ばして獅子を待ちました。
獅子がちらりと自分の手に視線を落とすのが見えました。きっと魚を傷つけることを恐れているのでしょう。
気にしなくていいのに。少し切なく思いながら、魚はかすかに微笑んでみせました。鋭い爪で引き裂かれても、大きな牙にかみ砕かれても、それが獅子の爪や牙ならば、魚はちっともかまわないのです。獅子と一度きりでも触れあえるなら、獅子の願いが叶うならば、魚は命を投げ出せるのですから。
熱い風に吹かれ苦しい息をもらしながらも、魚は、おいでと獅子を誘いました。声は、どんなに魚が望もうと出てきてはくれません。魚は魚でしかないのです。声を持ちません。獅子に名を告げ、その声で呼んでほしいと願っても、獅子もまたグルルと唸り声を上げるだけです。人の姿であっても、獅子は獅子、魚は魚でしかないのでしょう。けれどもこれはただ一度だけの奇跡、明日のない一頭と一匹に、言葉は必要ありませんでした。
ひときわ大粒な涙が瑠璃の瞳から落ちたと同時に、バシャンッと大きな水音を響かせて、獅子が走り寄ってきました。たくましい腕が、大きな手のひらが、魚のしなやかな背を掻き抱きます。初めて触れた獅子の体は固く引き締まり、草原に乾きを与えた太陽よりもずっと、魚には熱く感じられました。
それでも魚は、身を焼く獅子の熱から逃れようとはしませんでした。どれだけ痛もうと、二本の腕はヒレと違い、獅子の背を抱き返すこともできるのです。うれしくて、涙に濡れた目でじっと獅子を見つめれば、獅子の精悍な顔が静かに近づいてきました。
ゆっくりと伏せられていく獅子の目に、魚は薄く唇を開いてみせると、獅子と同じように静かに目を閉じました。時を置かず重ねられた唇も、やっぱり燃え立つように熱くて、魚の背が知らず震えます。生きながら焼き尽くされそうな獅子の熱は、けれども魚にとっては目眩がするほどに甘く感じられました。舌先をかすめる牙の鋭さにすら、魚の胸は喜びにはち切れそうでした。
この一夜の奇跡が明けたら、魚の命は終わります。獅子が明日を生きられるかもわかりません。ならばこの奇跡に感謝し、獅子の願いを叶えようと、魚は、抱き上げてくる獅子の首にすがりつくように腕を回しました。
幸せそうに魚を見つめる獅子の瞳には、隠しきれない飢えの焔が見えるようです。魚は世界がどれだけ広いか知りません。けれどもこの焔に焼き尽くされてこの世を去る自分はきっと、世界で一番幸せな生き物に違いないと、魚はほのかに微笑みました。獅子の瞳にもきらめく涙が浮かび上がり、幸せそうに微笑み返してくれた獅子の頬を、静かに伝って落ちていきます。
夜はまだ、始まったばかりでした。
熱をはらんだ風が渡る草原は、太陽が月へと空の支配を譲ろうとも、魚の身には酷(こく)すぎる暑さでした。
獅子と魚のほかには生き物の気配はまるでありません。枯れた草が風に揺れ、カサカサと音を立てます。魚のやわい肌を気づかってか、獅子は魚を膝に乗せ、けっして地面に横たえさせようとはしませんでした。獅子の体も息もひたすら熱く、二人に吹き付ける風よりもなお、魚の身を焼いてゆきます。
それでも、魚もまたけっして離れまいと獅子にしがみつき、獅子の大きく熱い手や舌が肌をたどるたび、喉をのけぞらせ息を喘がせながら、ポロポロと歓喜の涙をこぼし続けます。どれだけ苦しくとも、業火に焼かれるが如き熱のなかにあっても、魚は獅子と視線が絡むたび微笑んでみせました。
獅子の手も、舌も、ただひたすらにやさしく触れてきます。甘く歯を立てられても、魚の白い肌には傷一つついてはいません。ただ甘やかなしびれが魚の背を走るばかりです。二人が流す汗が青白い月光にきらめき、溢れる涙を真珠のように輝かせていました。
獅子のたくましい背ややわらかく輝く髪を撫でながら、魚はこの上なく幸せでした。もう二度と心地よい水のなかを自由に泳ぐことはできず、白い肌の下はどんどんと焼きただれていきますが、それでも魚は幸せで、ただ幸せで、この世のすべてに感謝せんばかりの喜びに満たされていたのです。
身のうちから己を焼き尽くす灼熱に背をのけぞらせ、珠のような汗を振りまきながら、魚は、白くまるく輝く月を、ささやくようにまたたく星々を、揺れる瞳で見上げました。この夜が明けたら、終わる恋です。終わる命です。それでも、月も星々も、二人の恋の成就を祝福してくれているように見えました。
長い夜は狂熱をはらみながらもゆっくりと、静かに更けてゆきました。