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どれだけ長く抱きあっていたでしょう。長く深い息を吐き、とろけるような笑みを浮かべて魚の髪をやさしくなでた獅子は、目を閉じると魚を抱きしめたまま眠ってしまったようでした。
甘い倦怠感と熱に痛む体をどうにか動かし、魚はそっと獅子の腕から抜け出すと、月明かりを弾いてきらめく獅子の髪に静かに口づけました。
獅子が眠ってくれてよかった。自分が死ぬところを見せずに済む。少しだけ安堵して、魚は這いずるようにして泉へと戻っていきました。岸辺で眠る獅子へとちらりと視線を投げ、魚は冷たい水に身を浸します。ゆっくりと視界がぼやけて、魚は終わりがきたことを知りませした。
禁呪は一度きり。どれだけ祈ったところで、もう天は願いを叶えてはくれないでしょう。それでも薄れていく意識の底で、魚は願わずにはいられませんでした。
獅子が俺のことを忘れてくれますように、と。魚は、獅子が苦しみ続けるくらいなら、自分を忘れてほしいと願ってやまなかったのです。
獅子が魚のことを忘れても、魚はけっして獅子を忘れはしないでしょう。魂だけになっても、いつまでだって想い続けることでしょう。そうしていつか生まれ変わったのなら、またどこかで獅子に出逢えるといい。そのときには、今度こそ名前を聞けるだろうか。自分の名も、獅子に呼んでもらえたらうれしい。
姉や友にも出逢えたらいいけれど、多くを望んだところで一つも叶うことはないかもしれません。だってもう、禁呪は使い果たしたのですから。
それでも魚は薄れていく意識のなかで、いつかの未来を願いました。訪れることなどないかもしれない願いを、夢見るように思い浮かべ続けました。
獅子にまた好いてもらえるようにとは、願いませんでした。天が叶えてくれたとしても、獅子の心を操るような真似はしたくはなかったのです。
また出逢えたら、獅子に少しでも好きになってもらえるよう、今度はもっともっと頑張ろう。初めましてから、もう一度。今度は一夜で終わる奇跡ではなく、いつまでも獅子と一緒に笑って過ごせるように頑張るのだ。魚は命の日が燃え尽きるまで。魚は、ただそれだけを願い続けました。
自分を忘れた獅子ともう一度出逢えたら、好きになってもらえるよう頑張ろう。そうして今度はきっと、固く一つに想いを撚り合わせ、いついつまでもともに。
空が朝焼けに染まりゆくなかで、さよならと告げる声を持たぬまま、密やかにけれども強く願い、誓いながら、魚は静かに息を引き取りました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魚が目を覚ますと、そこは見知らぬ場所でした。
姉や友が救ってくれたときと同じでしょうか。魚は少し混乱しながら辺りを見回しました。
ここがどこなのかもわかりませんが、なにより、なぜ自分が生きているのかが魚にはわかりません。魚はたしかに生を終えたはずなのです。
そこはやわらかな光に包まれていました。水のなかではないのに苦しくもつらくもありません。不安に身じろいだ魚は、自分の姿がまた人に変わっているのに気づきました。
初めて立ち上がった足はひどく傷んだのに、ここではちっとも痛くありません。固く乾いた地面ではなく、ふわふわと白い真綿のような雲の上に、魚は立っていました。
頭上の月は驚くほどに大きく、星々もやけに強く輝いて見えます。
あぁ、ここは空の上なのだ。なるほど俺はやっぱり死んだらしい。思ったと同時に、魚の体にスリッとなにかがすり寄ってきました。
それは二匹の魚でした。二匹はうれしくてたまらないと言いたげに、魚に戯れかかります。
魚は二匹の姿を認めた瞬間に、自分が新たな生を得たことを悟りました。
魚はもう、魚ではなく、人の姿であっても人でもないのです。
空できらめく星の化身へと、魚は生まれ変わっていました。
そのとおりと同意するかのように、二匹は魚の手にそれぞれ身をすり寄せてきます。魚の瑠璃の瞳に、じわりと涙が浮かびました。
間違えるはずもありません。
姉さん……錆兎っ。
大切で、とても大事で、大好きだった姉と友の、生まれ変わった姿がこの二匹なのだと、魚にはわかったのです。
水のなかではないのに、二匹はスイスイと自由自在に空を泳ぎます。魚がそっと撫でると、うれしげにヒレを揺らしてもくれました。
もう二度と、離れることはないのです。こんなにうれしいことはありません。
ひとしきり幸せの涙を流したあと、魚が思い浮かべたのは、やっぱり獅子のことでした。
獅子はどうしているだろう。魚はキュッと痛む胸を我知らず掴みしめました。姉と友が心配げにツンツンと魚の手を突いてきて、魚はどうにか微笑んでみせましたが、それでも獅子のことが気がかりでしかたありませんでした。
自分が目覚めるまでに、どれだけの時間が経ったのかわかりません。獅子はもうかなり弱っていて、命は消えかけていました。獅子が亡くなった魚の体を食べてくれたのならいいのですが、きっとそんなことを獅子はしないでしょう。であれば獅子もまた生を終えているはずです。
どこかで生まれ変わってくれただろうか。けれども、星になってしまった自分と獅子がもう一度出逢うなんて、そんな奇跡はもう二度と起こらないに違いありません。
せめて獅子が幸せに暮らしている姿を見守れたらいいのだけれど。
思いながら、魚が雲の切れ間から地上を覗いてみようと身を乗り出したそのときです。
「そこの人! すまないが、ここはどこだろうか。気づいたらここにいたんだが、さっぱりわからないんだ!」
大きく快活な声が聞こえ、魚はあわてて振り返りました。
白く大きく輝く丸い月を背に、一頭の獅子をかたわらに連れた男が立っています。男の髪は黄金と真紅。燃え立つように強い光を放つ瞳も同じ色をしていました。
そこにいたのは、人の姿になった獅子でした。
かけられた声は耳に馴染んだうなりや遠吠えではなく、ちゃんと言葉の意味もわかります。とても元気で、朗らかな声でした。
たくましく伸びやかな体躯も明るい顔にも、弱った様子は微塵もなく、獅子もまた、星へと生まれ変わったのだと魚にはわかりました。
獅子は、言葉もなく見つめる魚にキョトンと目をしばたたかせ、小首をかしげています。魚のことを覚えていないのでしょう。
魚の最期の望みに天が応えてくれたかのようで、魚は途方もない歓喜と少しの戸惑いに、どうしたらいいのかわからず唇をおののかせるばかりでした。
と、獅子が不意に近づいてきて、身をすくませた魚の頬に、そっと触れてきました。その手はやっぱり熱く、けれども草原で触れたときのように痛くはありません。その熱はただひたすらに心地よく、どうしようもなく魚の胸は喜びに震えました。
「お願いだ、泣かないでくれ」
心配そうな声に、ようやく魚は自分が泣いていることに気づきました。魚に身を寄せ獅子を見定めていたらしい姉と錆兎は、いつのまにか少し離れた場所で二人を見守っています。
「なぜだろう、初めて逢ったはずなのに、君を見ているとひどく胸が苦しい。けれど、つらくはないんだ。うれしくて、幸せで、なぜだか俺こそ泣きたくなってくる」