彼方から 第四部 第六話
ラチェフの言葉に呼応するように、身体を抑えていた二人の傭兵の内の一人が胸座を掴んでくる。
「なのに一年前、おまえはその恩も忘れて……」
彼に身構える暇など与えず、力任せにその体を引き寄せ――
「チモをくすねて、ここを逃げ出しおったくせにっ!」
「ひ!」
言い掛かりとしか思えないような言葉と共に、傭兵はドロスの顔を殴りつけていた。
大きな体が、部屋の隅に片付け置かれていた雑貨や道具の中に倒れ込む。
大きな音を立て、道具の中に埋まってゆくドロスに向け、
「いまさら、グダグダ言えた義理かっ!!」
殴りつけた傭兵はそう、吐き捨てていた……
「お……おら――」
殴られ、罵声を浴びせられ……萎縮し、身体が硬直する。
確かに……
チモを連れ、この屋敷から出たのは事実だ。
だが――
「でも、おら……」
『理由』は、あるのだ。
『騒ぎ』など、何も聞こえぬかのように、通り過ぎてゆくラチェフの姿が視界に入る。
「チモを一匹」
「あ」
チモを詰め込んだ、網の袋を手にする傭兵に歩み寄り、そう言いながら手を袋へと向けている。
「ちゃんとチモを増やして、そっ、その売り上げの四分の三は、こ……ここに送ってたど! リェンカでやってたみ……みたく!!」
決して、『逃げ出した』訳ではないと……
「タザシーナが、グッ、グゼナなんかに行くって言うから、お……おらが守ってやんねぇといけねぇし――で……でも、チモと離れるのもやだから、ほんの数匹ならと、仕方なく…………」
『彼女』の為だと……
本意ではなかったのだと、自分の『我』の為の行動ではなかったのだと――
ガラガラと音を立て、身体の上に乗る道具を除けながら、ドロスはその『理由』を口にしていた。
自身の名が出た途端……
「ちょっと!…………」
ムッと、表情を歪め、眉根を寄せ――
「わたしを引き合いに出さないでいただける?」
タザシーナはドロスを見据え、彼の『意』を、否定していた。
不機嫌そうなタザシーナの声など、どうでも良いのだろう。
ラチェフは網の袋へ手の平を向け、
「袋は開けるな、このままでいい」
閉じた袋の口を開こうとする傭兵に、淡々と言葉を発している。
そして、その言葉の通り……
ラチェフはこの騒ぎの中、己の思念でチモを一匹だけ、鮮やかに袋から自らの手に転移させていた。
「どうしてそう、勘違いが激しいのかしら……」
まだ、床に尻を着けたままのドロスを見下し、
「わたしはチモを売る商売上、あなたと接していただけじゃない」
冷たく、鼻先を鳴らし……
「タザ……」
「グゼナにだって、勝手に付いて来て」
何かを言いかけたドロスの言葉を遮るように、然も迷惑だったと言わんばかりに、言い捨ててゆく。
ショック――だったのだろうか……何も言えず、自身の耳を疑うかのように、彼女を見詰めているドロス。
だが、彼からどんな眼で見られようと、タザシーナにとってはどうでも良いことであり、『ドロス』など、視界の端にも映らない――そんな存在でしかなかった。
ふぃっ……と顔を背け、爪先をラチェフへと向ける。
「本当は、グゼナなんかにも行きたくなかった」
これだけの騒ぎの中、チモを手に、眉一つ動かすことのない屋敷の主に歩み寄りながら、
「止めて下さるかと思ったのよ、ラチェフ様。わたしは場末の占い場を抜け出したかっただけ……真の望みは、ラチェフ様のお傍で役に立つことでしたのに――」
何の関心も示そうとしないラチェフに恨み言を――自身の『欲』を、連ねていた。
***
――なして……
――なして、そんなこと言うだ
――タザシーナ……
初めて……
タザシーナに会った日のことを思い出す。
一年以上も前、ラチェフに連れられ、彼女がこの屋敷に来た日のことを……
とても、綺麗だと思った。
こんな見場の良い女性を見るのは、初めてだった。
その姿に見惚れ、胸が高鳴ったのを、今でも覚えている。
彼女が何の為に屋敷に来たのか、詳しい理由は知らない。
訊ねなかったし、そんな説明もなかった。
けれど、チモを売る商売を任されていた。
だから幾度となく、この飼育部屋へ彼女は足を運んでくれていたし、自分とも接してくれていた……
その彼女の『微笑み』が、この屋敷の生活の中で唯一の楽しみだった――――
グゼナに行くと言っていた日も、少し不安そうに見えたから、だから……
だからドロスは、彼女に付いてグゼナに行こうと決めたのだ。
***
「グ……グゼナでおらが売ったチモの代金! 助かるって、い……言って! 受け取ってくれてたじゃないか! ワーザロッ……ロッテに、近づくために、おら――ずいぶん協力して!!」
想いが昂る。
彼女の冷たい態度と言葉に、これまで、彼女の為と思ってしてきた行為の全てが、頭の中を巡ってゆく。
別に、見返りが欲しいと、望んだ訳ではない。
けれど、自分の行為、想い、行動の全てを否定されるのは、報われないのは……『違う』、そう感じてしまう。
「あなた、そうして欲しそうだったから、使ってあげただけ。言わば、親切心よ」
だが、そんなドロスの『想い』など……
タザシーナにとっては『自分の為に利用出来るもの』でしかない。
自分の『望み』をただ、叶える為だけに利用する――
それだけのものでしかなかった。
「バカが……利用されてやんの」
ケイモスの嘲りの籠った呟きが、耳朶を掴む。
「ぅ…………」
倒され、埃に汚れた服。
床に手を着き、殴られ、腫れた顔で……
ドロスは己の惨めさを、何も報われない、関心すら示されない己自身の存在を、嫌というほど味合わされていた……
**********
手の中で、短く甲高い鳴き声を上げるチモを見やる。
その頭を少し撫でてやれば、チモは眼を細めながら、やはり短く鳴いた。
「おまえをグゼナにやったのは、占いに出たからだタザシーナ。それが、我々の吉になるとな」
その鳴き声が少しだが可愛く思え、口元が僅かに緩む。
大人しく、掌の中に納まっているチモ。
今度はその腹を、優しく指先で弄ってやりながら
「まさしくその通りになったな――ゴーリヤの占いはよく当たる」
ラチェフは肩に触れてきたタザシーナにそう、言葉を向けていた。
「な……」
無意識に、眉根が寄る。
「また、ゴーリヤですの!?」
ラチェフが常に傍に置き、絶大な信頼をも置いている老占者……その名に、神経が逆撫でされる。
確かに、占者としての能力は高く、確かだ。
けれど――――
「【天上鬼】と【目覚め】の正体を見つけて、帰って来たのはわたくしよ!!」
その『自負』がある。
決して、ゴーリヤがその『能力』で見つけたのではない。
『自分』が、『自分だから』こそ……!
あの二人の正体を見つけられたのだと――!!
だからこそ――――
「『あんなの』より、ずっと占者の能力がありますわっ!!」
比較などされたくない。
ゴーリヤの『手柄』などではないと、知らしめたい……!
そんな『想い』が強く、前に出てくる。
作品名:彼方から 第四部 第六話 作家名:自分らしく