幾星霜の夜明けをゆく(1)
「お前とは、幸せになれない」と言われた方がまだ良かった。貴方の口から聞けたならたとえ心に裂け目ができようとも、いまを受け止め、裂け目を癒す方を見つけられたかもしれないから。ヤドリギの下ひとり捧げる祈りが届くなら、ただひとつの魂でさえ喜んで差し出すものを、神は見向きもしないのだ。
お題『君とは、幸せになれないから』 二〇二一年十二月十九日
(二十一)
機嫌の変わりやすいくすぐったがりに、本気で嫌がられないよう注意しながら身体のあちこちを探検する。きれいに反った喉の頂が美味しそうだ。
誘われるままに前歯で軽くとらえると、リュウは食べるなと唸り、必死に笑いを堪えつつ身を捩った。
食べやしない、味わってるだけだ。白々しくも彼の耳に吹き込んで赤い耳朶に噛りつく。血肉にしてしまえるなら本当にどうにかしかねない衝動が、自分に全くないとは言い切れない。
そうでもなければ、誰がこんな真似事などするものか。
二〇二一年十二月二十日
(二十二)
どれほど悔しくても一粒の涙さえ溢したことがないあなたが、血に染まる私を抱えて泣いている。泣かないで、そんなに泣いたら涙に拭われてしまうよ。微笑めばたった今人から奪ったばかりの印が内から焼けるように疼いた。私を失う恐怖にあなたは震えたのだという。涙まじりの鉄錆は苦さより甘さが勝る。
お題『君の涙の味』 二〇二一年十二月二十二日
(二十三)
今日一日、師兄にどこか落ち着きがなかった理由は、師兄に連れてゆかれた夜の屋根上にあった。
「リュウ、お前に星をやろう」
「夜空もさわれないのに、星が取れるの?」
首を傾げた私に、師兄はどこからか先の尖った三角形をした小さな星を手のひらに出してみせた。星はやや白っぽい色をしており、月の光のもと手のひらの上で転がすと時折鋭い銀に輝いて、夜の仲間であることを主張した。
だいぶ後になって、あの時師兄が星をくれたのは何故なのか尋ねたところ、夜空を見た私が星を取れないものか呟いていたからだと返ってきた。
「私は自分が呟いたのも覚えていなかったのに」
「——それでいいんだ。驚かせたかったんだから」
魚眼石 二〇二一年十二月二十四日
(二十四)
水で手を洗ったばかりなのか、冷えた指先に首の後ろを撫でられて、思わず声を上げてしまった。
「うわっ!」
「すまん。リュウ、今日は髪を上げない方がいい」
これから大掃除なのに師兄は何を言っているのか。
「作業の邪魔……」
とっさに言い返した私に師兄は、私の歯形とだけ耳打ちして去っていった。意味を理解するまでたっぷり数秒はかかった。
お題『(そんな不意打ち、ずるくないですか)』 二〇二一年十二月二十六日
(二十五)
彼には『ここまで』と決めている自制の線があるようで、どんなに私が意地を張るなと言っても頑として聞き入れようとしない。
それだけに自分の決めたタイミングで飛び込み、息つぎを掴んだときの身の委ねかたは、痺れるように甘くどこまでも淫ら。飲み込まれたのはどちらなのか、やがて分からなくなるほどに。
お題『素直じゃないとこも可愛くてよろしい。』 二〇二一年十二月二十八日
(二十六)
一年の終わりと始まりをまたいで何日か、学院のなかには親元に帰る者たちがいた。
——今年も師兄は居ないんだ。
数日前から降り始めた雪で外はすっかり覆われ、中庭の石畳は影も形も無い。
リュウは両足を揃えて白いふかふかの絨毯に飛びこむと、そのままぴょんぴょん跳ねて前へ進みながら足跡で道を作る。新しい世界を踏みしめているようで彼は気分が良かった。
出発したところからかなり離れたところまできて、リュウはふと立ち止まった。振り返った先に、いつもの校舎を目にした途端、彼は心細さを覚える。
——帰りたい。でも帰りたくない、独りでは。
二〇二一年十二月三十日
(二十七)
私の手、特に手のひらは時間をかけてよく洗っても煤に染まったまま元の色に戻ることがない。
その理由の大部分はアルカナの炎を扱うからだが、己の内よりあらわれる炎に肌が焼け焦げているわけではなく、例えるならばあくまでもぬかるみに轍が残ったようなもの。
しかし初めのうちは新しい肌色に慣れず、目にする度に何か身体に影響は無いだろうかと不安な気持ちになった。けれどもこの煤は、元々持っていた痣にたった今気づいたようなものと思えば恐れる必要はどこにもない、そう考えられるようになる頃には炎の扱いにも慣れ、心技体いっそうの調和を実感するようになっていた。
アルカナの特性は人それぞれ異なる。それ故、私のように身体に何らかの変化がある者も決して珍しくはない筈だ。
何しろ力がどのように開花するかは時が来るまで本人でさえ決して知り得ない。花開いて初めてその姿を知るような力が自分の身体にどう影響するかなど、予想こそすれ正確に当てられる者などいるだろうか。
そしてこうした見た目の変化に驚いたのは私本人だけではなかった。痛みなどの異常は一切ないと説明しても、現に肌が焦げたように見えるので、アルカナをうまく制御できるようになるまで、すぐ側で私の様子を見ていた師兄はしばしば心配そうにしていた。
日課が終わり、よく洗った手に皮膚を労るための軟膏を擦り込もうとすると、師兄は自分の時間が許す限り必ず私に手を見せるように言い、表と裏の状態を一通り確かめてから両の手に軟膏をのばしてくれるのだった。
「最近は気をつけているようだな」
「……師兄に注意されたから」
「大方そうだろうと思ったよ。私を理由にするのはこれで終わりにしろ。どんな道具も正しい手入れをしなければいずれ使い物にならなくなる」
さらに『お前は特に自分を雑に扱うところがあるぞ』と師兄から新たな釘を刺されてしまい、痛いところを突かれた私は沈黙した。
師兄の物言いは厳しかった。が、私のかたい手に軟膏を擦り込みつつ揉み解そうとしてくれる様子から、ただ小言を並べたいだけではないことが伝わってくる。煤の手は戦士そして努力の証だと、師兄から言外に認めてもらえたようで私は照れくさくも嬉しく思い、彼がこれで良しとするまで大人しく世話になるのだった。
リュウの手 二〇二一年十二月三十一日
(二十八)
満月を挟んできっかり一週間、ラオは毎月人から虎へと姿を変える。堂々たる体躯に、月に輝く金茶と黒の素晴らしい毛皮を持つ獣へと。
虎になったラオは、私の姿が見えるまで何度でも独特なビャウという声で呼び続ける。
リュウ、リュウ、どこだ?
短く鋭い鳴き声をあげるラオの前まで出てゆくと、彼はぴたりと鳴きやみ、さくさくと軽い足取りで私の元まで寄ってきて、すぐさま器用な前足で抱きついてくる。ラオに潰されないように頑張って踏ん張るのではなく、大人しく彼の腕におさまる方が危険が少ないことを私は過去何度目かの満月で学んだ。
ラオに傷つける意図はなくとも、虎の身では人に対する力加減がとても難しいらしく、じゃれつかれるととにかく服に爪が引っかかりあとあと面倒なことになるため、彼に会う時は体ひとつで出てゆくことにしている。
作品名:幾星霜の夜明けをゆく(1) 作家名:かすみ