ワクワクドキドキときどきプンプン 2日目
まずは稽古の汗を流してからと、子供たちと並んで体を洗ったのが、風呂三昧の始まりだ。
禰豆子が真菰に背中を洗ってもらっている横で、炭治郎は自分も体を洗いながら、何度もそわそわと義勇をうかがい見てくる。大きな目が雄弁に期待を伝えてくるのが愛らしく、ご希望どおり髪を洗ってやろうと、義勇は炭治郎を自分の前に座るよう手招いた。
パッと顔を輝かせた炭治郎が、すぐに風呂椅子に座る義勇の膝の間にちょこんと腰を下ろす。
「お願いします!」
浴場にひびく元気な声で言って、義勇を見上げて炭治郎は笑った。ちょっぴりむずがゆくも誇らしい、不思議な温かさが、義勇の胸を満たす。暗く冷たい黒い靄《もや》のなかでうずくまったまま、二度と光なんて臨めないのだと思っていたのに、こんな小さな笑顔一つに心が動く自分が、義勇にはなにより不思議だ。炭治郎はすごいな。なんとはなし感動しつつ、義勇はシャワーヘッドを手に取った。
下を向いた炭治郎のうなじは、幼さに見合って細い。背も肩も、やせ細ってしまった自分よりさらに薄く小さいのは、錆兎や真菰だって同様だ。それでも炭治郎だけは、なにかが違って見える。
なにがあっても守りたいのは、錆兎たちや禰豆子も同じことなのに、なぜだろう。炭治郎の幼い首や背中は、義勇の動かなくなった心をさざめかせるのだ。
慎重に湯をかけてやり、濡れて深みを増した赤い髪を洗いだすと、今度はやけに心が落ち着いた。錆兎や真菰に対してもそうなのだが、髪を洗ってやるという行為は、なぜだかとてもやさしい気持ちになる。相手が幼い子供だからだろうか。義勇にはよくわからない。
丁寧に、怖がらせないようにと、義勇は炭治郎の髪をゆっくりと洗う。洗い慣れた錆兎たちではないからか、炭治郎に触れる義勇の指先は我知らずいつも以上に慎重になった。
シャンプーの匂いと、ときおり膝に触れる炭治郎の体温、細い肩。この子はまだ幼いのだと、不意に強く思った。義勇の凍りついていた心がまた少し柔らかさを取り戻す。炭治郎と触れあうたび、温かく朗らかな笑顔を向けられるたび、義勇の心に小さな明かりが灯って、息が少しずつ楽になるのだ。
洗い終えるのはなんだか残念な気がしたけれど、いつまでもグズグズと髪ばかり洗っているわけにもいかない。コンディショナーまで済ませて濡れた髪を拭い終えたら、炭治郎がパッと振り返った。
「ありがとうございました!」
元気な声と笑顔は、どことなしはにかみを含んでいる。大きく丸い目がじっと義勇を見つめ、少しだけ逡巡をにじませた。
「あの……義勇さんの髪、俺が洗ってもいいですか?」
ためらう声に義勇は一も二もなくうなずいた。なんでそんなことを不安げに聞くのかわからない。いっそう顔を輝かせていそいそと立ち上がった炭治郎が、義勇の背後に回る。義勇が風呂椅子を降りてあぐらをかいたのは無意識だ。煉獄や宇髄のような高身長ではなくとも、義勇だって中三だ。小学生の炭治郎とでは身長差がある。錆兎たちに洗ってもらうときも、少しでも楽に洗えるようにと床に直に腰を下ろすのが常だった。
「義勇の髪って多くて長いから、いつも錆兎と二人で洗ってあげるんだけど、炭治郎一人で大丈夫?」
「大丈夫! あの、どこか痛かったらすぐに言ってくださいね?」
髪を洗うだけなのに、まるで歯医者みたいだな。炭治郎の心配がちょっぴりおかしくて、義勇はわずかに頬をゆるめた。こくんとうなずけば、「じゃあ、いきますっ」とやけに真剣な声が返ってきてそろっと毛先からシャワーが当てられた。
目の前の鏡に映る炭治郎の顔は、竹刀の点検をしていたときと同じくらい真剣だ。思わずクスリと笑ってしまった義勇にきづいたのか、炭治郎がキョトンと目をしばたたかせた。照れたように顔をほころばせるさまは、やっぱり幼くて、なんだか少し胸が詰まる。
水滴の散った鏡に映る炭治郎の笑み。一所懸命さが伝わってくる細い指の感触。来られてよかった、心の深いところで義勇はしみじみ思う。
感情が薄れ果ててからは、錆兎たちとどこかに出かけることもなくなった。なんの反応も返せぬ義勇が一緒では、どんなに楽しい場所だろうと二人の顔も曇りがちになる。帰宅してからも懸命に空元気を奮いたて、遊園地や映画より家にいるほうが楽しいと笑う二人を見るのは、鱗滝にとってもつらかったろう。義勇の体力だって心配だったに違いない。思い返してみれば鱗滝家に世話になって以来、お出かけなんてほぼなかった。いや、なくなった。
当人たちは認めないだろうが、錆兎と真菰が墓参りにあれほどはしゃいだ理由の一部には、子供らしい『おじいちゃんと一緒のお出かけ』への喜びがあったはずだ。
もっと早く気がつくべきだった。悲しみと罪悪感にうずくまって、周りのやさしい人たちから向けられる気遣いにすら、目を背けていた自分が悔しい。よみがえりつつある感情は、義勇に新たな罪悪感をいだかせる。
けれど。
チラチラとうかがってくるみんなの視線を、全身に感じる。それは少し落ち着かぬものではあったけれど、不快感はどこにもなくて、どことなし温かい気持ちになる。視線を向ければ一様に、楽しげな笑みが返ってくる、みんなの顔。子供たちはもちろん、煉獄や、宇髄でさえ、義勇と目が合うと笑ってくれる。
来られてよかった。鏡越し目が合った炭治郎の、はにかんだ笑みを見つめ、義勇は心から思ったのだ、そのときは。
「先にジェットバス行ってるぞ」
「夕飯もここで食べるんでしょ? 急がなくてもいいじゃない」
炭治郎が義勇の髪を洗い出してまもなく、一足先に体や髪を洗い終えた宇髄と煉獄が立ち上がった。
「全種類制覇と宇髄が言うのでな! 真菰たちは急がなくていいぞ。慌てると滑って転ぶかもしれない! 行き違いになったらツリーハウスで落ち合うことにしよう!」
「なんだ、けっきょく天元が一番楽しんでるんだな」
いかにもお付き合いといった風情でいたわりには、風呂を堪能しきる気満々な宇髄に、錆兎が少しあきれた顔つきで言った。
「人生派手に楽しんだもん勝ちだからな。おまえら待ってたら湯冷めするわ。おまえらもゆっくり楽しめよ」
もしかしたら宇髄たちは、義勇が気づくよりずっと早く、錆兎たちの寂しさに気づいていたのかもしれない。出逢ったばかりの――実際には教室で顔を合わせているけれど――彼らに、義勇が打ち解けきれずにいることにも配慮してくれたんだろう。水入らずで楽しませてやろうという思惑もあるに違いなかった。
思考もまだまだ滞りがちな義勇が思い至るぐらいだ。敏い錆兎と真菰はすぐに宇髄たちの真意に気づいたらしい。
「わかった、途中で一緒になったらそこからはみんなで回ろう」
「逢えなかったらツリーハウスね」
「煉獄さん、宇髄さん、またね!」
バイバイと無邪気に笑って手を振る禰豆子に、煉獄と宇髄も笑顔で手を振り返す。昨夜のちょっとした騒動のわだかまりはどこにも見えなかった。
作品名:ワクワクドキドキときどきプンプン 2日目 作家名:オバ/OBA