Sugar Addiction
そう、私たちは春にはここを出る。アイドルを辞め、何もかもを捨てて、二人で遠くに行く……つもりだ。
あてはなく、頼れる人もいない二人きりの旅。それを知っているのも、私たちだけだ。
「……でも、私は……今のあなたから、全てを奪うことは出来ません」
今のこはくには仲間がいて、キラキラしたステージがあって、ファンがいて。友達がいて、穏やかな生活がある。
「二月には二十歳になろうというあなたに、全てを捨てろなどとは……とても言えません」
言いながら、鼻の奥がツンとした。一般的に見ても、男性アイドルとして見ても、二十歳などまだまだ人生の序盤で。これからいくらでも楽しいことが待っている。司だってそう思っていたのだ。二十歳の誕生日を迎えた日に、成人の日に袴を着てカメラの前に立った時に。
これ以上言葉を紡げば何かが溢れてしまいそうで、司は口を噤んだ。そんな司を見てこはくは困ったように笑い、まるで小さい子をあやすように指先をやんわりと握った。
「……なんでわしの全部やって決めつけるん。兄はんは昔っからそうや」
わしが抱えたいもんも、守りたいもんも、決めるんはわしじゃ。そう言い切ったこはくは、真っ直ぐに司を見つめた。
「昔から大切な物なんて一つしかあらへん」
「……どうして、」
どうしてそんなに強くいられるのか、教えて欲しかった。以前の自分にはあったはずのそれを、今は見失ってしまっているそれを。
「兄はんがおるから。わしにはそれだけで十分やわ」
揺らぐ視界の向こうで、決して揺らがない瞳がこちらを見据えている。私だってそうだ。こはくんがいたら、こはくんさえいてくれたら、それで十分だ。
それでも考えてしまうのだ。彼から全てを奪って、彼を独り占めして、その先の未来で……もしも彼がこの選択を後悔したら、と。
「自分が捨てるのはよくて、わしが同じことしようとしたら怒るんはおかしいやろ」
なあ、兄はん。そう言ったこはくの瞳いっぱいに、涙の膜が張る。あ、と思った時にはもう遅くて。
「わしにも同じだけの覚悟があるんやって、それだけ大切に思うとるんやって、どうやったら伝わるん?」
つぅ、と伝った涙にどきりとした。こんなに悲痛なこはくの表情を、今まで見たことがあっただろうか。
「逃げたいって言うた兄はんに、逃げたらええって、一緒に逃げたるって……そう言うたんはわしじゃ」
経営が破綻し、春には全財産の売却が決まっている朱桜のグループを、家を、私は捨てることにした。私にはそこから立て直すだけの手腕がないことも、気力がないことも、私自身よく分かっていた。
「こはくんはアイドルを続けることも出来たでしょう」
私は倒産した家の子だと後ろ指を指されることや、憐れまれる未来に、足が竦んでしまったけれども。
「わしがアイドルをしとるんは、兄はんの傍におるためや。それに結婚してまで桜河を残したいとも思うてへん」
たった一人になってしまった桜河を、こはくは自分で最後にしようとしている。
「不義理やろうか、座敷牢に隠してまで守ってくれた両親に、姉はんらに、わしはあっちに行ったときに、顔向けできるんやろうか」
「それを言うなら私だって……」
まだ母は存命している。グループ会社には社員だって抱えている。……それでも私は、全てを終わらせてしまいたかった。
「違う家に生まれてたら、なんてことは言わん。大切に育ててもろうたし、桜河の家に生まれたから兄はんに会えた。……せやけど、わしの人生じゃ」
そう言ったこはくは、もしかしたら自分にそう言い聞かせていたのかもしれない。
「坊と一緒に居りたいって、ただそれだけの、たった一つの願いくらい、叶えてもええやろ」
涙の痕を乱暴に拭ったこはくは、力強く笑った。司はそんなこはくを抱きしめることしかできなかった。
「わしは後悔なんかせえへんし、坊にもさせへん」
「……あなたも存外、強欲ですよね」
ぽつりと呟けば、誰に似たんやろうなと笑っている。
きっと大丈夫、そう心の中で繰り返して、見えないように涙を拭った。
5.栗きんとん
発車を告げるベルが鳴る。
「……特急、」
切符を握る指先に思わず力が入ってしまって、皺の入ったそれを丁寧に伸ばす。
「楽しみですね」
にっと笑った司にそんなんやない、と返して窓の外を見つめるけれど、窓ガラスに映った自分は否定できないくらいには楽しそうな顔をしていた。
窓の外に広がるのは雄大な自然。少し前まで赤や黄色で彩られていたであろう木々は葉を落とし、その上には寒々とした空が広がっている。
「ま、何にせよ晴れて良かったわぁ」
閑散とした電車のボックス席に向かい合って座り、膝の上でお弁当を広げる。
「そうですね。折角の旅行ですから」
年末に温泉旅館で過ごそうとする人間は皆、優雅に車で目的地に向かうのだろう。まぁ、お陰で人目を気にせず過ごす事ができるのだけれど。
「坊、食べ過ぎとちゃうん」
「こはくんは食べなさすぎでは?」
電車の発車時刻ぎりぎりまで選んだお弁当を横に並べて比較する。こはくの倍くらいありそうな司の弁当にふぅん、とだけ返せば、司は口を尖らせた。
「わしはこの服の所為でそんなに入らんねん。それに夕飯入らんようになったら困るしな」
タイトスカートを掴んで見せたこはくは、左手で弁当を持ち上げると足を組んだ。
「はしたないですよ」
そう言う司はいつも通りきっちりと膝をつけたままで、いつもと違うところはと言えば、フレアスカートから伸びた足の角度が斜めになっているところだろうか。
「こないな服選んどいてよく言うわ」
こうして欲しかったんやろ、とヒールを履いた足でこつんと蹴ってやる。
「っごほ、げほげほっ……」
「短いタイトスカートなんてええ趣味しとるわ」
ほれ、とタイツを履いた自分の太ももを指でなぞり、辿り着いたスカートの縁に指をかけた。
「こっ、こはくん……!」
「朱桜の兄はんはやらしいなあ。ああ、今は姉はんか」
ふっと笑ってみせれば、司は真っ赤な顔をして、わなわなと震える。ああ、おもろいなあ。
「あ、あとで覚えておいてくださいね……」
潤んだ瞳で睨まれても怖くなくて、それどころかゾクゾクと鳥肌が立つ。
「ええよ。好きなだけ可愛がったるわ」
年末年始くらいは贅沢をしよう、と言い出したのは司の方だった。
「そろそろ畳が恋しいのでは?」
なんて言いながら予約していたのは山奥の温泉旅館。まぁたまにはいいか、と目を瞑っていれば、当日用意されていたのは女物の服と靴、ウィッグだった。
「性別が違うだけで案外誤魔化せるものですよ」
どうせお風呂は部屋で入りますしね、と言われ、確かに露天風呂付きの部屋にしたと言っていた事を思い出す。
「『私たち』だと気付かれる可能性を減らす為です」
なんて言っているけれど、本心はきっと別にある。
厚手のニットはまだしも、短いタイトスカートなんて、シルエットが浮き出るではないか。自分は長いフレアスカートなんて誤魔化しのきく服を選んでいるくせに。
「あなたのfanのお姉様方を参考にしたのですよ」
よくもまぁ、つらつらと。そんなこんなで女装をするところから一日が始まった、大晦日の朝。
作品名:Sugar Addiction 作家名:志㮈。