Sugar Addiction
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、一年前の揺らぎは見えなかった。
「不安にあることはありますよ。けれども、隣にはこはくんがいるでしょう?」
私にはあなたがいて、あなたには私がいますから、と告げた司の声は凛と響いて夜に溶ける。
「あっという間の一年でした。雪が解ければ、春が来ますね」
「せやね……これからもずっと、こうやって何でもないことのように、当たり前のことみたいに、新しい年を迎えられたらええなあ」
「いいな、じゃなくて、するんですよ」
絡めた指を持ち上げられ、唇を落とされた。
「はいはい」
分かりました、と同じように指先に口付ける。けれどそれだけでは物足りなくて、目線を上げれば伏し目がちの瞳と視線が交わった。
「ん……」
どちらからともなく唇を重ねて、求めるように舌を絡める。アルコール混じりの吐息を交換して、それでもまだまだ、足りない。
司のグラスに残っていた酒を口に含み、唇を重ねる。少しずつ流し込んだ日本酒を嚥下していくのを薄めで見届ければ、頬に赤みが差してゆく。少し着崩れた浴衣から覗く肌も仄かに赤くて。ああ、これ、あかんやつや。
「……こはくん、寒いです」
「部屋、入ろか」
首に抱き着いてきた司をそのまま抱きかかえて、敷かれたばかりの布団へと向かう。
「温めて、くれますか?」
「……またするん?」
お互いにそのつもりだった癖に、白々しいやり取りをする。そんな時間が、堪らなく好きだと思う。
「なあ、明日の朝っておせちやん。あれ、あると思う?」
白い首に緩く歯を立てながら問えば、司の瞼が開く。
「無かったら、作ってもらいましょう」
「ほんまに我儘な兄はん」
夢を見た。世界中の甘いものを二人で食べ尽くす夢。シュークリームにチーズケーキ、大福に胡麻団子。名前も知らない甘味。ああ、あほらしゅうて、笑うてまう。
「こはくん、起きてください。朝ごはんを食べに行きましょう」
揺すられる身体と、司の声。そういえば夕食は部屋で食べたけれど、朝食はレストランでビュッフェ形式だと言っていたっけ。元日なのでおせちも並びますよ、と言われたのを思い出す。
「ん……栗きんとん?」
「きっとありますよ」
元日に食べる二人の大好物を思い浮かべ、口元が緩む。もう少し寝ていたかったけれども、と夜の匂いが僅かに残る布団から起き上がれば、白地の浴衣に袖を通した司がいた。
「逆やないん」
「可愛らしいこはくんは、私だけが知っていたらいいでしょう」
ふふ、と笑う司に昨晩夕食の時に見られただろう、なんて野暮なことは言わないでおく。だってこはくも、同じことを考えていたから。
黒地の浴衣に袖を通し、転がっていたウィッグを付け直して櫛で梳かそうとすれば、手の中から櫛を奪われた。
「お姉さまがやってあげますよ」
上機嫌の司を背に薄くメイクを施す。鼻歌まで聞こえてくるのが可笑しくて、こはくは思わず笑ってしまう。
「そないに楽しみなん? 栗きんとん」
「そういうことにしておいてください」
よいしょ、と立ち上がれば取られる手。元日くらい許してやるかと溜息で返し、指を絡める。
「昨日のあの子、会えるやろか」
「新年のご挨拶をしないといけませんね」
この先会うことはないとしても、この瞬間を大切にしたいから。そう思ったのは、どうやら司も同じらしい。
「伊達巻と黒豆も外せませんね」
「わしは紅白の寒天がええ」
おせちに寒天? と司が首を傾げて口火を切った論争は、足元に感じた小さな衝撃によって幕を閉じた。
6.pancake
「なぁ、ほんまにこの階段上がるん?」
そう不安げに問われると、自分まで不安になってしまう。
「地図にはここだと表示されていますもん……」
かといって自信のない司は、恐る恐る暗い階段をあがる。けれど一段ずつ上がるたびにコーヒーの良い匂いがしてくるものだから、最後の数段は思い切って駆け上がってしまった。
「ほら、合っていましたよ」
木製のドアに掲げられた看板に書かれた、【喫茶店】の文字。ゆっくりと扉を開けば、内側についたベルが小さく鳴った。いらっしゃいませ、と掛けられた穏やかな声に会釈をすれば、奥の席に通される。綺麗なステンドグラスの前の、ゆったりとしたソファ席。
メニューを捲れば調べていた以上に豊富な品数に、司とこはくは目を輝かせた。
「うわ、パンケーキ食べに来たはずやのに」
「fruit sandwichも美味しそうですね……」
食事のメニューも豊富なその喫茶店は、地元の人でも知る人ぞ知る隠れ家的な店らしい。
前のページに戻ったり次のページに進めたりを繰り返し、散々迷った末に決めたのは、フルーツパンケーキ。フルーツがたくさん載っているのだと曖昧に書かれたそれに惹かれたのは、どうやらこはくも同じようだった。
パンケーキを待つ間、ゆっくりと店内を眺める。ステンドグラス越しに柔らかな日の射す平日の午後。自分たち以外に居る客は、隅の席で本を読んでいる老婆くらいだ。
「ほんまに遠くまで来てもうたなあ……」
近くの窓から外を見るこはくは、知らない土地の景色を楽しんでいるように見える。
「ええ、そろそろ一年経ちますしね」
「長かった気もするし、あっという間やった気もするわ」
二人で手を取り姿を消した四月。あの頃の司は暫くホテルから出られず、こはくはと言えば情報収集に駆け回る日々。同じところに留まり続けることも出来ず、ホテルを転々としながらただ息を殺して生きていた。
目標は海外への逃亡。けれど資金が無限にあるわけでもなく、かといってすぐに海を渡れるほど準備も整っていなかった。だからこうして、国内を転々と旅してきたのだ。
「人の噂も七十五日と言いますし、そろそろ良いでしょう」
鞄の中を探り、二冊の手帳を取り出す。
「Happy birthday,こはくん」
そのうち一冊を手渡せば、受け取ったこはくがゆっくりと唾を飲み込む。
「わしの、パスポート……」
じっと見つめてぎゅっと胸の前で抱えたこはくは、ゆっくりと息を吐いた。
「今までで一番嬉しい誕生日プレゼントやわ」
それがたとえ偽名で作られたものだとしても、こはくが喜んでくれていることが嬉しかった。
「えへへ……良かったです」
鼻の奥がツンとして、それでも今ここで泣いてしまえば色々な感情が溢れてしまいそうで。ぎゅっと堪えようとしたところで、優しい香りが鼻腔を擽った。
お待たせしました、と二人の前にそれぞれ置かれた大きめのお皿には、フライパンを目いっぱいに使われたであろう大きさのパンケーキが二枚と、それを彩るフルーツが載っている。
「えっ、めっちゃフルーツ載っとるやん」
苺にオレンジ、バナナ、キウイ……ブルーベリーにさくらんぼまで載っている。
「ice creamも……! それに見てください、butterが星形になっています」
アイスクリームの上を彩るカラースプレーとミントが可愛らしさを倍増している。Marvelous以外に何と表現していいのか分からない。
そしてもう一つ置かれた小さな皿には、フォークとナイフ、スプーン。それと小さなポットに入ったメープルシロップ。
作品名:Sugar Addiction 作家名:志㮈。