ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。
磯野波平は、ソファに座ったまま、物凄い形相の笑みでがたがたと震えながら、与田祐希に挨拶を返した。右手の親指を噛んでいる。
「こわっ」与田祐希は笑う。「波平君、顔、怖いよ? どしたん?」
「与田っちよぉ……。これから、入るんか……」
「え?」
「ふ、風呂だよ、入るんか……」
磯野波平はソファに腰を下ろした前傾姿勢のままで、与田祐希を見上げるように眼を見開いてにやけた。
「入るけど。あは、一緒には入らんよ」
与田祐希は天使のようにチャラけて笑った。
「ああおお、もっちろんだろ、それは。なあ……、与田ちゃんよぉ。よっしゃ、取引だ、与田ちゃん……。これから、俺も男湯に入る……」
「んー?」
与田祐希は、磯野波平を見つめて眼をまん丸くする。
「与田ちゃんも女湯に、入る。そしたら、壁に向かって、大声で誰がいるとかよぉ……、今、どこをどう洗ってるとかよぉ……教え合おうぜ」
「んやだ」与田祐希は笑った。「それって変態っぽい」
「バカばか、ちゃうちゃう、仲間だろうが!」
磯野波平は顔をしかめ、焦ってソファから立ち上がる。
「それ、着替えだよな?」
磯野波平は、与田祐希の手に持つ袋を指差して言った。
「そう」
与田祐希は普通に答えた。彼女は実に純粋な心の持ち主であった。それは故郷の福岡県志賀島(しかのしま)で培った野生ともいえる。
「じゃあ出るタイミングとかよ、合わせて、一緒に涼もうぜ?」
「え、ていうか、誰かもう入っとると?」
「おう。入ってる事は確かだな」
「ふーうん。ま、いいか。わかった、じゃあ叫ぶね、大声で」
与田祐希はにこっと悪戯っ子のように笑った。
ふう、と、磯野波平は溜息をみせて、笑顔になる。
「じゃあ与田ちゃん、中での反応を待つぜ。俺も風呂入っからよ!」
「はーい、じゃーねー」
与田祐希は女湯のセンサーをクリアして、〈女湯〉へ。磯野波平は〈男湯〉へと入っていった。
与田祐希がロビーから休憩室に入ると、広大な面積が窺えた。室内の半分が、食堂のようにサークル上のテーブルがいくつも置かれており、またその半分の面積には、リクライニング・シートや体重計、メイク用の大型鏡と、暖簾で隠された着替え室があった。
磯野波平がロビーから休憩所に入ると、銭湯によく見るような着替え場のような風景が眼に入ってきた。暖簾で隠された着替え室と、後は体重計やソファが置かれたフロアと、大きな鏡のある洗面所があった。そこにはドライヤーなどが設置されている。
「けっ、女湯とはちげーんだろうな、造り事態がよ」
磯野波平は、最初に靴を脱いで、それから流れるような動作でおもむろにスーツの上下を脱いで、棚に押し込んだ。今度は靴下を脱ぎ、棚に押し込む。最後に、ボクサー・タイプのトランクスを脱いで、それを棚へと押し込んだ。
風呂のある扉へと裸で歩き出し、途中、流れるような作業で、タオルの棚からバスタオルを一枚、腰に巻いた。
扉を開ける――と、靄がかった大きな浴槽が一番奥に見えた。体を洗う場所は、一列に十か所あり、それが三列に分かれている。サウナは一番右の方に、それらしき木造りの小屋と、水風呂が見て取れた。
磯野波平は、女子達の壁と繋がっているだろう、最も左の壁の近くに腰を下ろして、身体を洗い始めた。ボディ・ソープやコンディショナーやリンスやシャンプーは所々に在った。
「与ぉ田ぁちゃぁ~~ん! 誰がいぃんのぉ~~!」
磯野波平はそう大声で壁に叫んでから、息を殺すように、壁の一点を見つめて黙り込んだ。
微かだか、女性と思われる声が聞こえていた。
「うめーー、れんかーー、でんちゃーーん。……」
「はづきーー、たまちゃーーん、くぼちゃーーん。……」
「あやめちゃーーん、レイちゃーーん、ゆなちゃーーん。……。さくちゃーーん、でーーす!」
「何叫んでんの?」梅澤美波は与田祐希を見つめた。
「え誰かに伝えてなかった?」久保史緒里は、不安そうに与田祐希を見つめる。
皆も、自然と胸元を隠して、怪訝そうに与田祐希を見つめていた。
与田祐希はへへっと笑い、続ける。
「今ねーー、さくちゃんが頭洗ってるーー!」
「えっ」遠藤さくらは泡だらけの為、眼を瞑ったしゃがんだ姿勢のままで焦った。
「レイちゃんもあやめちゃんもー、髪洗ってるーー! はっはっは」
与田祐希は可笑しそうに笑う。筒井あやめと清宮レイは「何ですか?」「何です何です?」と戸惑っていた。
今度は向こうの男湯から、磯野波平のどでかい大声が返ってきた。
「俺はなーーだあはっはあ、今は大事なとこを洗ってる途中だぞーー、そうティンティンだなーー! 念入りに洗う事でーー、男が上がるからなーーがあ~はっはっは!」
「与田っ、やめなさい!」
梅澤美波は瞬時に事の状況を理解して、止めに入った。
「何ここー、声聞こえるの~」
久保史緒里は、湯船の中でまるまって、表情を歪めた。
「波平君、の声でしたよね?」
柴田柚菜は、湯船に浸かりながら、冷静に言った。
「え、夕君とかもいんのかな?」
佐藤楓は、湯船に浸かりながら、そう呟き、皆の顔を窺う。
「えーやー、いないっしょ。いたらぁ、許されてないと思う……」
岩本蓮加は、身体を隠しながら湯船に入り、冷静な判断を述べた。
「波平エッチだなー、ったく」
向井葉月は、小型の椅子に腰を下ろし、シャンプーの液を手の平に取った。
「仲間だって言うから」
与田祐希は梅澤美波を見る。
「まずかった?」
「ダ~メよ~、ちょっと与田~」梅澤美波は苦笑する。
壁の向こうからは、まだ無益な磯野波平の大きな独り言が響いてきていた。
「今入ったんでしょ、向こう」岩本蓮加は半分真剣に、半分は楽しんで言う。「先に出ちゃえばいっか?」
「ダメだよ、うちら髪とか乾かさなきゃならないからさ、時間かかっちゃう」
梅澤美波はそう言った後で、湯船の中で腕組みをして、考える。
「あのさ、出たところの、着替えする部屋は、女子しか入れないじゃん」佐藤楓が提案する。「そこで、少し寛いでから、普通に出ればいいんじゃない?」
「そっか。そだね。それしかないか……」
梅澤美波は納得した。そして、与田祐希を見つめる。
「与田」
「はい」
与田祐希は身体を洗っている途中であった。泡立ったきめの細かい泡が、身体中を覆っている。
「与田は、波平君に、何も声を返さない事」
「は~い」
「わかった?」
「はぁい。すいません……」
髪を洗い終えた遠藤さくらと清宮レイは、身体を濡れたバスタオルで隠しながら、ゆっくりと湯船の中に脚を入れた。
「あー、いい湯だ」遠藤さくらはにこり、と呟いた。
「気持ち~、ね!」清宮レイも微笑んだ。
阪口珠美は髪を洗い終えて、バスタオルで身体を隠しながら立ち上がる。
「波平、まーだなんか叫んでんじゃん」
そのまま、ゆっくりと右脚から、阪口珠美は広大な湯船に浸かった。
与田祐希はくすくすと笑いながら、隣で必死に髪を洗い流している向井葉月の頭に、何度もシャンプーをかける。
「え? え?」
向井葉月は、可笑しいな、と戸惑いながらも、続けて激しく泡立っていく髪の泡を洗い流していくが、与田祐希がまたシャンプーをかける。
作品名:ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。 作家名:タンポポ