僕はきっと、この日を忘れない。
「僕はそうしたいなー。リリィ・アースで観ちゃったら、もう他では会場に行くしかないよねー。雅樂さんはぁ? 予定とかあるの?」
「予定はライブだけに決まってんだろ……。まあ、あそこでライブ観戦するんだろうな。俺様だって、夕さんに選ばれた列記とした乃木坂ファン同盟だしな」
「そうだな。それに関しちゃなんも言わねえよ。お前らだって乃木坂をどんぐらい好きなのかもっと示してみせろよな。乃木坂とじかに触れあってんだから」
「おう」
「あのさあ……」
来栖栗鼠に、二人は注目する。来栖栗鼠は、作業服の胸の刺繍部分を指先でひっぱって、それを二人に見せていた。
「何でここ、うんこちんちん、て入ってんのー……。危険人物に思われちゃうよ」
「ぶふう!」
天野川雅樂は、自身の作業服を確認してから、チャンピオンにカウンターパンチを食らったチャレンジャーのように大袈裟に咳き込んだ。その胸には刺繍文字で『僕、うんこちんちん!』と入っている。
「まあな、名札だな。お前らの」
磯野波平はいばって言った。旨そうに煙草を吸っている。
「てっ、狂ってやがんのかてめえは!」
「恥ずかしいよ~、こんなの~……」
「ファン同盟のプライドを身につける為だ! 俺達も最初はうんもてぃんてぃんだった!」
「嘘つけ!」
「激しく引くよ~、女の子達が~……」
天野川雅樂は作業服の上着を慌てて脱ぎ捨てた。下に着ていた会社のTシャツがあらわになる。
「あー……」
来栖栗鼠は天野川雅樂のTシャツに記されているアルファベットを頭の中で読み上げていく。そのTシャツにも、『アイム、ウンコチンチン!』と書いてあった。
「ダメだ……。雅樂さぁん、一回降参しよ」
「何だ、なんて書いて………。ぶぅわっかかてめえは! ガチで気ぃ狂ってんじゃねえのか!」
「お前らなんてそんなもんだ」
磯野波平は座視で二人を見つめた。ふ、と真顔に笑みを浮かべる。
「降参しまーす、この肩書は勘弁してくださ~い……」
来栖栗鼠はぺこり、と頭を下げた。その後で、深い溜息をつく。
天野川雅樂は下のズボンを確認する。
股間の部分には、『そう、僕がちんちん!』という刺繍が入っていた。
「んだこれぁ!」
来栖栗鼠は天野川雅樂の背中側にまわって、尻の部分を凝視して、また溜息をついた。
「雅樂さぁん……。もう怖いよ僕、相手が悪いよー……」
「何が書いてあった!」
二人の作業服の尻部分には、『そう、僕がうんこ!』と刺繍が入れられていた。
「うんこって書いてあるよ、雅樂さん……」
「んなー!」
「忘れんな、ファン同盟でもここでも、俺が先輩だ。先輩のいう事は絶対、先輩には何でもゆずる。日に一回は先輩をカッコイイと言う、わかったか?」
「会社はこんなもん社員に渡してんのか!」
「騒ぐんじゃねえアホヅラ……。そういうのを着る奴は俺にはむかった馬鹿な元ヤンキーとかだけだ」
「僕さからってないよー」
「やめたるこんな会社ぁ!」
「おーやめろやめろ、すっきりするわ。があ~っはっは!」
「初日だよう?」来栖栗鼠は、溜息をついた。「仲良くしようよ~」
「乃木坂をてめえみてえな邪道な奴に任せんなぁ、ダメだ! ファン同盟としてここでも向こうでもてめえを監視してやるぁ!」
「ああ良かった。じゃあやるんだね。お給料でグッズ買うんだから~、働かなきゃね!」
「よーしそうか、なら働けうんこちんちん一号二号!」
天野川雅樂は真顔で切れて、指先の煙草を磯野波平に器用に飛ばした。
「おおう熱っつう!」
「火事んなる火事んなるからぁ!」
「何てことしやがんだてめえはーっ! あったま可笑しいんじゃねえのっ!」
「うし、働くぞ、来栖……」
「はぁい!」
天野川雅樂は床の上着を拾い上げた。二人は持ち場へと戻っていく。
「煙草ぐらい消してけっ! うんこちんちん一号二号~っ!」
磯野波平は己を燃やしかけた煙草を踏んづけて、人目を気にせずに何度も叫んだ。
来栖栗鼠は、微笑んで天野川雅樂に言う。
「でもさ、磯野さん、諸経費とか、全くとらなかったね……。書類には、色々最初にお金かかるって書いてあったんだけど」
「腐ってもな、乃木坂のファンに悪い奴はいねえ」
「んふ。そーだね!」
「よし、働くぞ!」
「おー!」
「何をすりゃいいんだ?」
「雅樂さぁん……、仕事内容ぐらい、見よう?」
「うんこちーんちーーん!」
「呆れた。まーだ叫んでる……」
「うるっせえ! マジで狂ってんのかてめえは!」
「あ……」
来栖栗鼠は床の黄色いテープのマーキングを見つめた。
「ここにも書いてある。凄い怖い人だ……」
床には黄色いテーピングで、『うんこちんちんのポジション』とマーキングされていた。
3
ファースト・コンタクト(株)本社ビル地下二階研究・開発フロアに案内されてから、御輿咲希(みこしさき)は五分間、幾つもの植木が置かれている休憩室で待たされていた。
休憩室のドアがスライドする。
「お待たせしました、御輿さん、こちらに」
顔を出したのは駅前木葉(えきまえこのは)、来年の一月二十日に三十一歳を迎える、ファースト・コンタクト研究分野の製品開発部の研究員である。
「はい」
御輿咲希は駅前木葉の後をついて行く。御輿咲希は、今年十二月十八日に二十一歳を迎える、ファースト・コンタクトの製品開発部、研究員見習いであった。二人ともが白いマスクと白衣を着用している。
デスクの並んだブースの前まで案内された。
「御輿さん、研究、開発の具体的な業務内容は、研究テーマに沿った実験、解析、データ収集、分析、検証などです」
駅前木葉は近くの棚にあったエスプレッソ・マシンにスイッチを入れ、また説明を再開させる。
「研究職は、新製品の開発や既存製品の改良に必要な基礎研究を行います。開発職は、研究によって得られた結果をもとに、製品化に向けた業務を担当します。安全の確保、コスト計算、モニタリングなど、研究、開発に付随する業務も開発の担当です」
「はい」
御輿咲希は、背筋を正した。
駅前木葉は、淹れたてのエスプレッソを御輿咲希の立つデスクの端に置いた。己の分もエスプレッソ・マシンをセットする。
「どうぞ、飲んで下さいね」
「あ、ええ。ありがとうございます」
「最初に、研究、開発の仕事をするには、化学、薬学、医学、農学、機械など、理系の基礎知識があることが大前提です。研究する分野に関する専門性や、高い知識の他にも、市場に求められる製品を生み出す為にマーケットニーズを把握するスキル、専門器具を正確に扱うスキル、データを正確に把握して分析するスキル、論理的に考えるスキルなども必要になります」
「はい……」
駅前木葉は、己のそばに淹れたてのエスプレッソを置いた。
「どうぞ、飲んでくれていいのですよ。耳で聞いていてくれれば」
「あ、ええ、はい。いただきますわ」
「特に言いたい事は、研究、開発は機密情報を扱う部門でもある為、情報管理能力や倫理観など、機密保持に関する高い意識も必要です」
「はい」
作品名:僕はきっと、この日を忘れない。 作家名:タンポポ