君に叱られた
「僕はもう三年だから、あと三学期に少しの活動しかできないけど、まだ三学期があるからね」
部長はサリを見て微笑み、同じ顔で、遥香の事も見た。
「三学期には、あの科学室を取り戻すよ。そしたら、また部員達も戻ってきてくれるし…。夏休み中に、先生にお願いしてみる。うん。あの故障してるパソコンじゃないと、一瞬のワープは、できないみたいだしな」
部長はそう言って、また黒板の文字を消し始めた。背中を向けたまま、二人に『あ、本当に、もう今日は帰っていいぞ~』と、明るく言いながら。
遥香とサリは教室を出た。理科室を出て、技術室を通り過ぎて階段に辿り着くまで、遥香はずっと、教室を出る時に部長に言われた『お~う、また三学期な~』という、明るい声を何度も思い出していた。
蛍光灯の切れかかっている地下一階の階段を、昇降口のある一階へと向けて上り始める。
階段の照明は暗くはないが、見つめる自分の脚元がやけに寂しく感じられた。
並んで階段を上がるサリも、何も言わなかった。
だから、遥香は気を遣って、声をかけた。理科室から続いている雰囲気は、並大抵の辛さではないのだ。
「汐崎さん…さ、」
「ん?――なに?」
遥香はサリの顔を見る。
「パートナーが、ずっと部長とだったんだ?」
「うん」
サリはキツネのような顔で、そのまま頷いた。
「あのパソコンじゃないと、ダメなんだよね?」
「うん。少し壊れてるのよね…。ヘルメットなの。あのパソコンにヘルメットを繋げると、ヘルメットに違和感が出てくるのよ」
サリは真剣なのか、はたまた普通なのか、顕在的なつり眼を引っ張り上げたような顔で遥香に話した。
「家に、ゲームのデータが入ったUSBを持って帰って、試したみたい。でも、ダメだって」
サリは脚を止めた。遥香も脚を止める。
そこは地下一階と一階を繋ぐ、階段の踊り場であった。
「ヘルメットも、ちゃんとかぶったって?」
遥香がきいた。
サリは頷いた。
「ダメだってさ」
「えー…、ふ~ん……。あ、そうそう。みんなはあれ、どんな感じなの?」
遥香は、意識的に表情を明るいものに変えてきいた。
「みんなもゲームの世界に行けた、んでしょう?」
「……んふ。うん」
サリは少しだけ苦笑を見せて、遥香に言う。
「それね……。行ったというか…。それは、賀喜さんだけよ」
「ん?」
遥香は顔を突き前に出す。
「え?」
「私達は、あのゲームの中にね…。少し、ほんと、ちょっとね…。あ、気が遠くなる…てなってから、気を失うだけ」
サリはもう笑っていない。しかし、その説明をするサリの顔は、あの日一度きりとなった時間によく似ていた。
「気がつくと、本当に行ったような気になってるの。――だって、全員が必ず気を失うなんて、普通ありえないでしょ?」
遥香は戸惑いながら『うん…』と頷いた。それからすぐにサリが壁際へと歩み寄ったので、遥香も壁にぴたりと背をつけて寄り掛かった。
二人とも、鞄を下に置いた。
「本当にゲームの世界に行けたなんて……。それは、大袈裟に言ったんでしょう?」
サリはそう言うと、くすくすと笑った。
遥香は、頷こうかどうかを迷う。遥香は確かに、あのゲームの世界に行ったのだと自分ではそう思っている。長い宇宙のトンネルを抜けるように、気が遠くなり、気がつくと、眼の前にあの世界の住人が立ち、そして自分も街の中に立っていた。――ほんの何秒間のその出来事を、遥香は現実であったと思っている。
「まあ、大袈裟だったとしても、たぶん…、本当なんでしょ…。私達だって、そこまでリアルではないにしろ、行ってきた、っていう気は、毎回だったんだから」
サリの顔は上履きを見下ろしている。とても楽しそうなキツネ顔であった。
「楽しかったよねぇ……。賀喜さんだって、一回だったけど、楽しかったでしょ?」
「うん……」
遥香はサリに頷いた。
「私……、正直言うとね、今も、賀喜さんの事、苦手なの」
サリの突然の告白に、遥香はだいぶ面食らった。そのまま顔を驚かせたまま『うん…』と、さもわかっていたかのような返事を返してしまった。
遥香は顔を驚かせたまま、呆然と階段の方を見つめる。
「でも、待って待って、我慢して、やっと来てくれた私のパートナーだから…」
サリは遥香の顔を見た。
「今も嫌い」
「うん……、え?」
遥香は笑顔になった顔を、素早くまた驚かせた。
「大嫌い」
サリは微笑む。
遥香は鳩に突かれたような微妙な苦笑で、サリの顔を見ていた。
「憎たらしいの」
サリは笑顔であった。
「嫌いよ、賀喜さんなんて」
「えっ…っとぉ」
遥香は視線を逸(そ)らす。返答に困った。
「でも」
サリのその声に、遥香は無意識にサリの顔を見た。
「部活の時間は、仲良くしよう?」
サリは笑顔ではなかった。しかしそのキツネのような眼だけは、微笑んでいる。
「私、部活が命なんだ。部活でのあの時間と、あの時間を一緒に過ごす仲間が、私の全てなの。みんなどん臭い奴らだけど………。だから、パートナーになろうよ」
遥香はゆっくりとサリを見つめて、『うん』と頷いて、そして微笑んだ。
「理科室に戻ろっか?」
遥香は大きな瞳をいっぱいに笑わせて、サリに言った。
「最後の部活さ、二人でさ、やって帰ろ」
「うん」
サリは笑顔で頷いた。
二人は鞄を持ち、それから、駆け脚で階段を下りた。
そして、廊下を静かに走って、サリと一言二言を交わしながら、遥香は理科室のドアを勢いよく開いた。
そこで二人は、教卓(きょうたく)に両手をついたまま、顔を俯けて静かに泣いている、部長の背中を見たのであった。
サリは『今日はやっぱり、帰った方がいいわ』と言って、寂しそうに一人で帰っていった。遥香と自宅の方向が違う為、サリはそのまま、校門から振り返らずにとぼとぼと歩いていったのであった。
遥香は校門に立ったままで、今学期最後となる校舎を見つめていた。そこからでは見えない理科室を思い浮かべ、校舎の景色にどうしようもなく胸が痛くなる。
もう、確実に他人ではなく思えていた。
たった一度の秘密の遊びであったが、村瀬も、フトルも、メガキンも、そして部長もサリも、もうただの部活仲間ではない。
六人の心がバラバラになってしまったようで、心にどうしようもなく寒い風が吹き抜けていく。
真夏の最中だというのに、遥香は砕け散った何かに、無性に寒い思いを残したまま、校門を後にした。
帰宅した後は、クラスの友達に電話をしなくてはならない。プールに出掛ける予定を決めようと約束をしている。部屋の中を片付けるようにと母にも言われている。
通信簿も連絡用紙も母に出さなくてはならない。宿題も山程ある。
随分と暖かい風が吹いている。――住宅街の路地に差し掛かった辺りで、もう自分の家が見えていた。
明日からは暑い暑い、真夏の夏休みが始まる。
暑い暑い、夏休み。
歩く事をやめた遥香は、それが一体なんなのかもわからぬ悔しさに、どうしてか顔を隠したままで涙しているのであった。
遥香は静かに、路に立ち尽くしたままで、しばらく泣いていた……。
8
夏休みの初日。植物が光合成を果たせる絶好の大晴天であった。