君に叱られた
「ねえ、あのゲームのの事、もっと詳しく教えてよ」
「あ、いいよー」
と屈託なく微笑んでから、遥香は『あ』のままでしばらく動きを止めた。
見つめられている弟は、遥香の『恋のレーザー光線』を浴びている。しかし、姉弟、という事もあり、弟もそれを持っているので、やはり弟には効果がなかった。
弟は不思議そうにきき返す。
「あ? どした?」
「ん?」遥香は無表情で反応した。「何が?」
「なんか、今『あ』って……。ぼ~っとしてるし」
「してないしてない、してないしてない」
遥香は面白がるように微笑んだ。
「してないよ。野球がんばってる?」
「がんばってますよ」弟もにやける。「え、いやだから、そのゲームの話してよ」
「ん?」遥香はまた無表情になった。「何が?」
「いや、ほれ、三秒だけ異世界に行けるっていう、さっきオカンと話してたじゃん」
「話してないけど?」
「え?」弟は、驚いた顔をした。「ほら……、飯食いながら、話してたじゃんか。もう忘れたん?」
「ううん。話してない」
遥香は首を振りながら、嬉しそうにシマエナガのぬいぐるみを胸に抱きしめた。
「ねえ、この子にさ、名前つけるとしたらさー、何がいいと思う? いやっ、やっぱりシマエナガちゃんでいっか?」
弟は頷きながらも、不思議そうに遥香を見つめていた。
今日は珍しく、それから二人は遥香が風呂に入るまでの時間を『可愛くない?』と『可愛くない』を連発して楽しく過ごしていた。しかし、弟がひとたび『あのゲーム』と口にすると、遥香は瞬時に無表情になって『ん、何が?』と言うのであった。
その後、弟が『オカーーン!』と大慌ててリビングへと走って行き、『なんかこの人ヤバーーい狂ってるぅ!』と姉の記憶喪失について大騒ぎした事も、いつかはこの二人の楽しい思い出に変わるのかもしれない。
7
校舎の放送室から発信される、古臭い鐘のチャイムが鳴り響いていた。
学校が二学期の終業式を迎えるこの日、遥香は溜息を連発させていた。部活の時間はあの日以来、急激に楽しく感じている。サリとは相変わらず見えない壁があるままであるが、やはり以前よりも仲良く会話ができるようになった。他の四人とも同様に、これまで一切なかったはずの会話は、あの日以来、飛躍的に生産されている。
では、どうして遥香は溜息を連発しているのであろうか。
一日の学校課程を全て終わらせ、遥香は校門の前で風に吹かれていた。セーラー服が真夏の風に靡(なび)いていて、放課後に感じるあの独特の風の匂いを体感している。
これから、楽しくも寂しくも、自由に変化していく放課後に感じる風の香りであった。
絶える事なく生徒達が校門を通り過ぎていく。何人かの生徒は遥香と同じく校門前に立っている。そんな生徒達は誰かを待っているのかもしれない。しかし、やはりそれ以外の全ての生徒達が、そこに立つ誰に視線を向けるわけでもなく、校門を通り過ぎていった。
校門前に構えた昇降口には、靴を履き替えている生徒達の姿がある。何処かからまた風が吹き込めば、真夏の爽やかな臭いを運ぶように、植木の木々がさわりさわりと音を立てる。日差しは暑くて強く、セミの鳴き声が無性に喉を乾かせた。
放課後、たまにしか感じる事のない、風の匂い。
遥香は校門前で校舎を振り返ったまま、そんな風の匂いを寂しいと感じていた。
「えっ?」遥香は驚いて腹から声を出した。
「ごめん。なんか、やっぱり夏休みも使えないみたいなんだ」
夏休みを目前に、最後の部活にと集まったのは、遥香を含めたあの六人と、たった三人の熱心な部員達だけであった。
部長はそんな八人を前に、申し訳なさそうに、理科室で頭を下げていた。
村瀬はふてくされている。
「パソコン使えないんじゃ、俺、なんでここに入ったのかわっかんないっすよ」
村瀬は静かに苛立ちをあらわにしていた。
「くそ顧問だな……、ちくしょ」
「先生は、なんて言ったんですか?」
サリはずっと冷静であった。
「夏休みの活動は?」
「うん……」
部長は申し訳なさそうにする。もう、それだけですべては窺えた。
「夏休みの活動は……、今年はない」
「ないのう?」
フトルがすぐに驚いた。
遥香も驚いていた。去年は夏休みにも、あの涼しい科学室で何度かパソコンを弄っていたのであった。
「夏休みには、海にでも行けって言いたいんですか?」
メガキンが一番悔しそうにしていた。
「一度でも…、あの無責任顧問を、尊敬していた事が悔しい……」
「今日が、二学期最後の活動になる……」
部長は、一番覇気がなかった。
「この後、粘菌を電子顕微鏡で観察して、葉っぱの葉緑素を、やっぱり電子顕微鏡で覗くだけだから…。うん……。このまま帰りたい人は、今日は帰ってもいい。研究データは自分達で持っているだろうから、家にパソコンがある人は、そっちで本来の部活の続きをする、という事にしよう」
部長は、『これじゃ理科部だからね』と、弱く苦笑して言った。
それからすぐに、三人の一年生部員達が「家で続きをします」と言って、帰っていった。
そして、村瀬も。
「俺は幻滅しましたよ、科学部の意味ないじゃん」
村瀬は部長にあたっていた
「すまん……」
部長はあやまるだけであった。
村瀬は帰っていった。
そして、メガキンも。
「部長がしっかりしてくれないと………。いいです、言い過ぎました」
「いや…、その通りだ」
部長はずっと謝っていた。
「すまん、みんな」
「僕も、家で部活をします」
メガキンは最後だけ、いつもの顔で苦笑した。
「一人きりじゃ、つまんないかもしれないけど」
最後に、フトルも出て行く。
「ごめん部長…、俺もぉ……」
「ああ、いいよ。今日は自由参加だから」
部長は明るくしていた。
「他の部員達も、ここにさえ来てないしな。また理科室へ行けと、クラスで科学部の活動発表があったんだろう。うん…。冷房使えないんじゃ、ははは、帰った方が楽しいもんな」
「ごめん……。俺、実験とかは、あんまり…」
フトルが帰っていくと、そこには、もう三人しか残っていなかった。
まだ何も用意されていない、使用前の理科室。流し台とコンロを常備した長台が幾つも等間隔に並列(へいれつ)している。教室の前方に大きな黒い黒板があり、三人は、そこにぽつん、と立っていた。
遥香はフトルが教室を出ていった後も、何も語ろうとしない部長とサリを気まずく見つめていた。
サリはフトルが教室を出て行くのを見送ったまま、そのまま教室のドアに身体を向けて俯(うつむ)いている。
部長は黙ったままで、黒板に書かれた『顕微鏡を使うように』という、顧問教師の書き残した研究課題の文字を黒板けしで消していた。
「顕微鏡…って、どこにあるんでしたっけ?」
サリが部長に振り返った。
遥香はその場所を知っていたが、まだうまく声を出せなかった。
「うん……」
部長はサリを見て、そして、遥香の事も観た。
「無理して僕に付き合わなくてもいいよ。僕も、もう少ししたら、帰るから」
遥香は何も言わなかった。ただ、部長の優しい細い眼から、視線を外す事しかできなかった。
サリも気まずそうに、そうしていた。