君に叱られた
サリはご機嫌でヘルメットとコントローラーのコードをパソコンにセットする。
「うふふふふ、かっきーーーん! …ふふ、こんな感じでいいかしら?」
「んふふ、こっちもこんな感じでいいの?」
遥香は両眼のはじっこをひっぱった。
「ひっぱたくわよあんた!」
私が向こうでは、汐崎さん。
そうよ。私が賀喜さんのキャラを動かして、あなたになりきるわ。
掟(おきて)って、それだけ?
ゲームを楽しくする為の掟だから、二人の場合はそれでいいわ。
楽しみだね?
ええ。本当は賀喜さんのマネなんて嫌だけど。
私はー…、嫌じゃない、かな。
そう……。ほら、始めるわよ。ゲームの中に入るつもりになって。
わかった。あっは、向こうで鬼ごっこしようね?
ええ、しましょしましょ。は~あ楽しみ。いい? 本当は三十分だけど、今日は二人だから、時間の制限が無いの。だからゆっくり……、楽しむわよ?
は~い。
それじゃ、私になりきってちょうだい。――コントローラーで動かし始めたら、もうスタートよ。
わかったわ、遥香ちゃん。
ふふふ…。ええ、行きましょう、サリちゃん。
それからすぐに二人の愉快な笑い声が始まった。だんまりの室内に、ひっそりと稼働するパソコンゲーム。その画面のゲーム世界に興奮しながら、魂を入れ替えたつもりの二人がはしゃいでいる。
冷房は程よく室内に行き届き、整った快感的な夏の環境に、二人の笑い声は加速していく。
しばらく経ってから、遥香は一瞬だけそのゲーム画面の中で立ち止まった。つまりは、コントローラーを動かさなかったのである。
それは、サリの動かすキャラが立ち止まっていたからであった。
横にいる本物のサリの姿はヘルメットで見えないが、もしかしたら、またあの一瞬だけ気の遠くなるような現象が起こっているのかもしれない。そう思うと、遥香は楽しくて仕方がなかった。
異世界に行くのが幼い頃からの夢であった。この手作りのマニアックなゲームと出逢って、それがほんの少しであるが、前に一度、実現したような気になったのである。
もうそれはないと思っていた。科学室を使用禁止にされ、そこにあるパソコンでないと不思議なゲームは出来ないと言われた。
しかし、自分はサリと今、そのゲームをやっている。そしてまた、一瞬でも、いつかの夢であった異世界の国を感じれるかもしれないのである。
そう思っていると、暗闇のヘルメットの中、ずっと眩しく光り輝いていたゲーム画面で、サリの動かす赤いリボンのキャラクターがまた動き出した。
遥香は自然と湧いてきた笑みを受け入れる。そして『行ってきたの?』と嬉しそうな声を発した。しかし、サリの返答はなかった。その変わり、ゲーム画面では丸く弧を描くように赤いリボンのキャラクターが忙しなく走り回っている。
遥香は楽しさを笑顔にしまってから、またそのコントローラーを握り直した。赤いリボンの女の子に体当たりをして、またふざけてみよう。『ドボ~ン♪』というあの可笑しな音が鳴り響いて、サリが怒って追いかけてくるであろう。
楽しいな……。
それが、遥香の残した最後の言葉であった。
ヘルメットをかぶったままの遥香は、コントローラーから崩れるように手を下ろし、そして首をだらんとする。
隣でも同じく、サリが椅子に座ったまま、天井を見上げるように茫然(ぼうぜん)としていた。その手にはコントローラーは握られていない。
静かに小さなメロディを鳴らし続けているパソコン画面では、激しく動き回る赤いリボンの女の子と、ぴたりと止まったままで呆然と街を見つめ続けている女の子のキャラがいる。
街の不思議な住人達は何食わぬ動きでようようと歩き、その二人のキャラだけが、まるで生きているかのように、その街を個性的に見回しているのであった。
~始まりの国~
静かな景色であった。まず印象的だったのは、赤い煉瓦(れんが)の煙突のおうち。それが眼の前にあった。
人がいっぱいに、そこらじゅうを歩いている。
頭の中がふらふらとしていた。
自分が地べたに座り込んでいるのがわかる。
しかし意識、というか、その眼は景色を眺めている。
景色ではなく、風景というべきか。
水車が回っている。朱色の煉瓦を敷き詰めた地面の端の方に、細い溝が造られている。
溝には水が流れているのだろう。そこに人間ぐらいの大きさの、水車が回っている。
まっすぐに延びた溝の左側が煉瓦の地面で、自分はそちら側の方に座り込んでいる。
溝の右側には家が並んでいた。
どれも個性的な家であった。
自分は水の流れる溝の方に身体を向けている。すぐ眼の前には赤い煉瓦の煙突がある家があった。家というよりは、おうち、と言った方がしっくりくる気がする。
可愛らしい、丸みがかったおうち。それがいっぱいに、びっしりと並んでいる。
おうちを辿るように、左の方に視線を向けていくと、並んだおうちの中にパン屋らしき建物があった。そこに街の人々が集まっている。
遥香は後ろを振り返った。おうちの逆側には、大きな河(かわ)が流れていた。
それは、とてつもなく大きい河であった。
その大きさに呆気に取られていると、ふと気がついた。――橋がある。
河には橋が架かっている。丸太で組んだような、大きな橋であった。
河の向こう側、その遠くの方に、森のような物が広がっている。
遥香は、立ち上がった。
おろおろとしたまま、とにかく、自分が街の中に立っている事だけは理解できた。
自分の正面には煉瓦の地面が続き、その向こうまでがずっと住宅街と商店街が混ざり合ったような景色になっていた。それは右側だけである。
右側だけの街。左側は、やはり遠くの方までも大きな河になっている。
遥香は、声を出せない……。
何が起こったのかと考える……。
すぐに例の現象が起きたのだと思った――。
しかし、胸には凄まじい不安の脈が打っている。
滞在時間が、長すぎる……。
もういい……。
帰りたい……。
遥香は瞬発的に泣きそうになりながら、後ろの景色も振り返ってみた。
まだ頭の中がふらふらとしている。
街の景色が頭を機能させない。
ぼうっと、ただ街の風景を確かめるだけになってしまう。
後ろには、自分がいた。
遥香はその時だけ、ほっと溜息をついた。
すぐにまた、自分の後ろ側の景色を確かめる。今度はしっかりと意識を保とうと、遥香はくっきりと景色に意識を集中させた。
変わらない風景がずっとずっと先の方まで続いている。左手側には、やはり住宅街と商店街の混ざり合った街、地面は朱色の煉瓦、右手側は大きな河になっている。
眼を見開いて、もっとよく、確実に風景を見つめてみる。
ずっと遠くの方で、街が終わっているような気がした。点のように小さな景色は、そこから、ガラッと煉瓦色の街から黒い色の景色に変わっている。
遥香はとりあえず、ふうっと息をついて、先程の自分を探す。
また前を見ると、そこに自分がいた。
「あっは」
自然と笑い声が洩れた。
自分は、何食わぬ顔で街を歩く二本足の動物達に、仰天しながら、あたふたと歩き回っている。