君に叱られた
「五人の意見を集めて、みんなの街の、中心につくったの、ほら」
遥香はサリにそう言って、左手側の大きな河を指差した。
「あの橋を渡った向こう側が、村瀬の国よ」
遥香の表情には、極上の笑みが浮かんでいる。
「えぇーー。へぇ~~……」
サリも関心を示しながら、つり眼を引き上げた。
「で、あっち、ね?」
サリは指差された方向を見る。――それは正面の風景であった。遥香はそのずっと先を指差しているらしい。
「ここからじゃ見えないけど、あっちに、フトルの国があるの」
遥香は、長いまつ毛をばさりと瞬きさせて微笑んだ。
「あ、フトル君?」
サリは嬉しそうに、遥香の肩に手を掛けた。
「フト」
「うわあっ!」
「ええっ⁉」
ドボ~ン♪
遥香はズザザザ…ザ…――と、激しい音を立てて、背中から地面に着地した。その顔は空を見上げながらふがふがと興奮している。
サリもうつ伏せになり、遥香とは逆側の地面に吹き飛ばされていた。
「ちょ…、ちょとあ~た……」
遥香は鼻筋に皺をつくって空を睨んでいる。
「嬉しいと…、人を…、突き飛ばすわけ…?」
「ちが、あたし、何もしてない……」
サリは痛そうな顔で、赤くなった肘を気にしながら、立ち上がった。
「かってになったの……、いっっ、たぁ……」
「何もしてない? 押してないの?」
「押さないよぉー…」
遥香のその顔は驚いている。
サリは眉間を顰(ひそ)めて、首を傾げていた。
「わかったわ、この世界だと、キャラクター同士がぶつかると吹き飛ぶ事になってるのよ!」
遥香はぴょこんと跳ね上がる。大きな瞳が三日月のように湾曲して笑っていた。
「やったわうわ~んすっごいパ~フェクトよ!」
「んふ……、あはは」
サリもこすっていた肘を忘れ、遥香のジャンプに合わせて、笑顔で手拍子をする。
「なんか、わっかんないけど、あはは、良かったね。なんで嬉しいの? わ~い」
「確実にっ、ゲームの世界に来ているのよ!」
遥香はサリに抱きついた。
ドボ~ン♪
「………」
サリは地面に寝転がったまま、びっくりしている。
「……夢じゃないの、ちょと、ごめんなさい忘れてたの」
遥香は受け身の取れなかった頭を抱えながら、必死に眼玉をむいてサリに説明する。
「これは…夢じゃないのよ…、痛いでしょ、死にそうに痛いわよね…。わかるでしょ、もう…。私達は、ついにゲーム世界へのワープを完成させたのよ……ちょっと、ヤバい角度で着地したわ」
「あの…、大丈夫?」
サリは洋服を払いながら立ち上がる。しかし汚れは一切見当たらなかった。
「あの、どうして背中から倒れるの? 危ないよ?」
「そ、…そうね」
遥香は冬眠から目覚めた熊のようにもっさりと起き上がった。頭を必死にさすっている。それはもう遥香の顔とは言えなかった。
「とにかくね…、あつつ…、帰る時まで……、お互いに触らないようにして、ここで遊びましょう……。行きたい場所はある?」
「てか…、どうやって帰るんだろうね?」
サリは近くを通りかかった猿に微笑みながら言った。
「帰る?」
「えーお猿さん可愛いー、うー…」
サリは胸の前で手を組む。可愛らしいポーズで猿に恋のレーザー光線を発射している。
しかし、遥香は猿を見ていなかった。
遥香の激しく痛がりながら嬉しがっていた顔が、徐々に無表情に近くなる……。
遥香は頭をさする作業を中断した。
空気を見つめる……。
「ねね、ちょいちょい、見て見て、あのお猿さんがしてるリボン、どっかに売ってないのかな?」
サリはつり眼で笑いながら、遥香に走り寄る。
「あ、お店とかさぁー、あったら、行きたいかも。いーやかぁなぁりぃ行きたいかも。いいや行きたいはず!」
遥香は、激しくサリの顔を見た。
「お…。んー? どした?」
「……ないわ」
「え?」
サリは眉を上げた。
「なになにぃ?」
遥香はその可愛らしい顔を消去するように、表情から全ての笑みを取り消した。
「どうしたの?」
サリは不思議そうに尋ねる。
サリへの視線を雪崩のように逸らし、遥香はその場に崩れるようにして、膝から座り込んだ……。
「どうし、ました?」
サリは不安な顔つきで、遥香の顔を覗き込む。
「あの~…、はーるっかちゃん……。かっきー……。え、ほんと、どした?」
すぐ近くにある煉瓦の家から、ロックスターのような派手な洋服を着た林檎人間が出てきた。サリはそれを一瞬だけ一瞥(いちべつ)して怯えた。しかし、すぐにまた林檎人間を見つめる。
そして、林檎人間の短い観察に満足すると、今度は遥香の顔を覗き込むように、サリもその場にしゃがみ込んだ。
「え。ほんと、どうしたの?」
「帰れないわ」
「え?」
サリは明るい顔のままで、眉をいっぱいに持ち上げた。
林檎人間は二人に気づいていないかのように、そこからすぐそばにある煉瓦の路面を何食わぬ顔で通り過ぎていった。
しかし、サリは遥香だけを見つめている。
遥香の顔は、泣いていた。
「帰る方法なんて、ないのよ………」
11
村瀬はパソコン画面を見つめる。そこにはメガキンから届いた一通のメールが開かれていた。
六畳部屋の隅々にまで行き届いた冷房を消して、村瀬はそれに対しての返事をパソコンに書き込む。勉強机には開かれたままの図鑑と雑誌がそのままにされている。『ストーンエッジ特集』というページと『キスのABC』と表記されたページが虚しく窓明かりに照らされていた。
村瀬だ――。
海に行ったんじゃなかったのか?
こっちは勉強中だよ。真面目に
受験勉強なんてしてた。
フトル達とは連絡取ってるのか?
本当に海に行く事になったら
(ないよな)俺にも声をかけて
くれ。しっかり断るから。
野郎同士じゃ、ちょっとな。笑
夏休みってつまんねえな、
それじゃまた――。
パソコンをそのままに、村瀬はだるい身体を勉強机に向かわせる。母の大きな声が廊下から『いるの? どこにも出掛けないの?』ときいていたので、声をはって『関係ないだろ!』と怒鳴り返した。
勉強机の前に座り、事前に開いておいた二冊の本をまじまじと見比べる。
図鑑と、俗物雑誌……。
「本当なら……、こっちだったんだ」
村瀬は図鑑を閉じた。その時、ふわっと勉強机に埃が舞った。村瀬はそれを眼を瞑る事で回避した。そうなるように閉じたのである。
つまらない………。涼しく理想的な環境が、想像を絶する程に無意味に思えた。
村瀬は雑誌の端と端を押さえるように手を置き、大きな溜息を一つ、雑誌にお見舞いしてから、その半開きになった視線を雑誌の文字に集中させた。
過激な内容の文章であったが、村瀬は己の求めるリアリティとのすれ違いを感じ、過激すぎる内容にまた一つ、小さな溜息を雑誌にプレゼントした。
頬杖をつき、窓の外の近隣の住宅に顔を向ける。ちょうどそこから二階の窓が見えた。
若いお姉さんが、着替えでもしてたら、退屈なんてしないんだけどな……。
村瀬は勉強机の引き出しを開け、そこに隠しておいた煙草を取り出して、また小さな溜息を消化した。それはラムネで作られた三十円のお菓子である。