君に叱られた
サリは大興奮で、お菓子のおうちを見回している。――ウェハース・クッキーの壁に、綺麗な飴(あめ)の窓。窓の縁(ふち)はポッキーで出来ている。床は板状のチョコレート。木目の柱はプリッツ。部屋中に置かれた家具や装飾品も、全てフェットチーネグミやピュレグミ、ケーキやフルーツなどで造られていた。
「えー、お、おお、かぁーわいいぃー!」
サリは瞳を輝かせながら、胸の前で両の手の平を半開きにして、おおはしゃぎしている。感情が前面に出た声は、完全な鼻声になっていた。
「え、これぜーんぶ、マジで食べていいのぉー?」
「誰がいいって言ったのよ、観賞用よ、観賞用」
遥香は部屋の中をピコピコと歩き回っている。口調は怒っているが、その顔に浮かんだ表情は入室からずっと半笑いになっていた。
「中途半端に食べたら、お化け屋敷みたいになっちゃうじゃない……。こ~れは観賞用」
「いやでも、これなんか…んん、美味ひいけど」
「あ~食べたらダメよあんたぁ!」
「んっふふふ、食べてないよ~~だ、あっははは、あと一週間ぐらいここにいてもいいよねえ?」
サリは満面の笑みで遥香に言った。
「どうせ向こうは夏休みだしさー」
「……困るわ」
遥香は忙しく笑顔を解除した。
「何言ってるのよ」
「え」
サリはフリーズした笑顔で、眼を見開いて遥香を見る。
「なんで? なんで、だろ……。いや、ディズニーランド、ぽいしぃ…」
「異世界なんて、閉じ込められたら、怖いだけじゃない……」
遥香は俯いた。
そこには、悩み抜いて部長にお願いしたチョコレート板の床がある。そのすぐ先にはせんべえのテーブルに、菓子パンの本棚が見えた。
どれも一日中悩み抜きながら、ルーズリーフに書き込んだリクエストであった。
「取り残されたのよ……私達は」
遥香はサリの方を冷静に振り返った。
「愛犬にも会えない…。家族に文句を言う事もできなければ、友達にだって会えないじゃない」
「でも、ほら。今は私がいるから」
サリは笑顔で、己を指差して言った。
遥香は、サリに顔を向ける。
「賀喜さんとなんて、つい最近じゃない……。今まで満足に話だってしてなかったのに、そんなあなたとここで楽しめっていうの?」
遥香はボディ・ランゲージを加えて、大袈裟に、そして冷静に、感情を口にする。
「ここで賀喜さんとスキップでもするの? あなたは私と鼻歌を歌うの? ……二人しかいない世界で? お腹いっぱいケーキを食べた後は何をするの? 街の人達と無駄話でもして時間を潰す? じゃあ明日は? その次は?」
「あの、さ……。なんか、なに、オシャレな洋服が売ってる店があるって、さっき」
「二人しかいない世界でどうしろっていうのぉ‼」
突然の遥香の激情に、サリは委縮する。――とっさに、用意していた友好的な言葉をしまった。
「あなたなんて大嫌いよぉ、怖がる私がバカなんでしょぉ…。こんな世界、理想の悪夢じゃない!」
「遥香ちゃん……」
サリは声を絞り出す。そんな自分を見ている事に、激しい違和感があった。
「違くて、あのね、私ね……」
遥香は泣き顔を隠す事なく、サリを激しく睨みつけてから、その脚を走らせた。
玄関に向かってピコピコと不釣り合いな脚音が鳴る。
「遥香ちゃん!」
サリの声に、カステラのソファの前で、遥香が振り返る。――その眼はサリを睨んでいる。窓から射し込む日差しで、遥香の頬には涙の光沢が出来ていた。
「いつまでも…、そうやってゲームごっこをしてればいいわ……。私は…、汐崎佐里よ」
「待って遥香ちゃん!」
サリは精一杯で大きな声を出した。
「何で怒ってるの? ねぇ怒らないでよ…。遥香ちゃん」
自分の姿をした友人が、何処かへと行ってしまう気がする……。
「ごめん私……」
サリは自分を睨む遥香を、おろおろと見つめたままで、必死に言葉を探した。
「はる……、サリちゃん。ごめん……、でも、あんまり、暗くならない方が」
「この家の周辺にいてっ、私は一人で方法を探すっ!」
サリは遥香へと踏み出そうとしていた脚を、そのままでぎゅっと踏み留めた。
どうしてか、声を出しても走り出しても、――彼女を引きとめられない気がした。
開かれたホワイト・チョコのドアから、眩い日差しが射し込んでいた。
遥香が外の世界に出ようとしている。
借り物のサリの心臓に、激しい脈が打ち込んだ。
「感情的になってる事は…、許してね。傷つけるつもりなんてないのよ。…だけど」
遥香は鋭く開かれた瞳で、サリを睨んでいた。
サリは遥香の言葉に支配されている。思考はおろか、呼吸以外の身体中の活動まで止めてしまっていた。
頭上に『HA』と『SA』の表示を持つ、入れ替わった互いの違和感――。眼の前の相手は自分であり、自分であるはずのそれは、自分ではない、自分。
鼻先を掠める、甘い生クリームの香り。
ショートケーキの可愛い友人。
気まずくなりながらも、大笑いで走り抜けた巨大な森林。
何度も吹き飛んで学んだ禁止(タブー)の接触。
夜の来ない街。自由な時間。非現実的な、夢の国々。
青い洋服がサリで、赤い洋服が遥香。
それはサリではなく、遥香ではない。
決して自分ではなく、それこそが自分自身。
現実ではない痛みと、現実でしかない痛み。
透明な喜びと、不透明な喜び。
二人の脳裏に、一つの言葉が浮かび上がり、そして消えない。
理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………。
理想の悪夢………――。
「私達はパートナーであって…、友達じゃないのよ」
遥香はお菓子造りの部屋にサリを残して、ドアの向こうの景色へと飛び込んでいった。
視界には、小麦色をした砂地の路面が広がっている。商店街のように、小さな家々が砂地の路の両脇に並び建てられている。赤い屋根や緑の屋根、どの家も同じようにまるみがかった三角屋根の家々であったが、その壁や屋根の色合いは美しいパステルカラーをしていた。