君に叱られた
「あー…、あーはいはい、あわかった!」
「きぃゃあ‼」
サリは大喜びで遥香を振り返った。
しかし、そのまま、一瞬のうちに、
サリはゾウの方を振り返っていた……。
遥香の突発的な悲鳴が響いている――。
「…っっ……っ……」
サリは絶句して、細い眼を全開にしてそれを垣間見る――。
「ひっひっひっひっひ」
「ああぁ……た、助け、…て……」
ドボ~ン♪
「わああ!」
「っきゃあ!」
サリは地面に激しく手をついた。――遥香がサリの腕を掴んできて、そのまま両者共、ベーゴマのように大地に弾き飛んだのであった。
「賀喜さんっ」
意識が朦朧(もうろう)としている中、遥香の激しい声に、サリは必死で顔を向けた……。
「何してるの逃げてぇっ」
逃げる……。
逃げる?
そっか。
逃げなくちゃ……。
「ウサギよぉっ‼」
次の瞬間、サリは猛烈な勢いで後方へと駆け出していた。
狂ったウサギと、出逢ってはいけない。
少し前を、赤いスカートを上下させながら、遥香が走っている。
振り返る事もなく、サリはその全力疾走の中で、その瞬間を鮮明に思い出そうとしていた。
『ああぁ……た、助け、…て……』
恐怖に怯えたゾウの瞳を思い出す……。彼は、身動き一つ取れずに、脚元からゆっくりと、――とけていた。
ピコピコピコピコ。
ピコピコピコピコ。
「始まりの街まで走ってぇ!」
遥香は全力疾走の中で大声を叫んだ。
「映画なんかでよくあるのぉ!」
「えぇ?」
サリも全力疾走の中で、強烈に声を叫び返していた。
黒い街に滞在していた兵(つわもの)どもが、蜘蛛(くも)の子を散らしたように逃げ惑う景色……。
今までに体験した、どんな恐れとも、それは違っていた。
どこか狂っている笑い声が、自分達の背中を、嚙みちぎろうとしている。
「ゲームの中で殺された人はっ」
「…っ……」
「ひっひっひっひっひ」
「元の世界には帰れないのよぉっ‼」
周囲に響き渡る悲鳴が狂っている。
それは点々と聞こえている。
そして、点々と聞こえる死の鳴き声の中を、それが泳いでいるようであった。
まるで楽しくて楽しくて、死んでしまいそうな程、それは狂っている。
発狂した、呪いの笑い声。
その恐怖は瞬間移動でもしているのか、周囲のあらゆる場所にその笑い声を響かせている。
胸が破けてしまいそうな恐怖。――サリは呼吸を止めた全力疾走の途中で、自分の後ろ、その光景を振り返ってみた――。
前方に誰の姿もなくなった時、ようやく、始まりの街に辿り着くのだと、サリは強く意識に木霊させる。黒い黒い黒いそこを、そのまま全力疾走で駆け抜ければ、太陽光に常に包まれた優しい街が待っている。
ウサギは、大きく左右に首を振りしきっていた。
まるで何かに絶叫しているような、過剰すぎる恐怖を満面に浮かべ上げて、ウサギは大声で笑い狂っているのであった。
一歩ごとに高く跳ね上がり、宙を駆ける幅跳びの選手のようにもがいては着地し、狂った笑気を叫び上げながら、ジグザグに壮絶なスピードで冒険者達の肩に指を触れていく……。
風の抵抗でその大きな耳ははたはたと揺れ、笑い声に感化されているような首は、今にも弾け飛びそうに左右に振り子されている。
皆がとけていく……。
悲鳴と無念を呻(うめ)く鳴き声はやがて嗄(か)れ、
狂った狂気が大きく笑い、
そこは、ウサギに消されてしまう……。
「サリちゃあぁあああ~~っん‼」
暗闇の土を抜ける瞬間、サリであった少女の身体は、眩い閃光に包まれて、
遥香になった……。
サリであった遥香は泣き声を大きく張り上げて、その脚を走らせる。
加速した景色に、その声が鮮明に耳を支配していた。
「誘ったのは、わ、私達だから………。逃げて、賀喜さん……」
がたがたと肩に震えを走らせながら脚を止めていた遥香の身体に、眩い閃光の塊が脚元から渦を巻いて包んでいく……。
「ダメ走ってぇぇサリちゃあぁぁぁんっ‼」
サリであった遥香は、眼尻に涙をこぼし、その暗闇を走り抜ける――。
――遥香であった少女の身体は、サリになった。
「主よ………どうか、神のご加護を……。生きてね、賀喜さん……」
「ひっひっひいぃぃぃ」
サリは大きく剣を振りかぶり、狂ったウサギへと、飛び込んでいった――。
瞼(まぶた)を覆(おお)う、とても強力な真昼の光線であった。――遥香の脚取りは、瞬間的にスピードを落としていった。何も変わらない風景がある。
和やかなそれは、自分が夢見ていたそれに近い。
この、一寸先で、自分達に何が起こったのか、そこはそれを考えもしないだろう。
赤い煉瓦細工の家々を見つめていた。
泣く事をやめようとしない感情が、激しく暴れ回り、乱れきった息遣いを整えさせてくれない。
水の流れる音が聞こえる……。遥香は、空間を真っ二つに割っている、その黒一色の空気を見つめた。
サリの声が、聞こえない。
サリの姿が、帰ってこない。
優柔不断に壊れてしまった感情は、想像を絶する恐怖と、脳細胞を破壊する混乱と、そして、大事な友を残してきた事実を見つめている。
最も凶暴に強い感情が、遥香の頬に、一雫(ひとしずく)だけ、それを流させていた。
「ウサギ………」
始まりの街には、平和な雑踏が鳴り響いていた。
「ウサギぃぃぃ………」
遥香は、そこをまっすぐに歩く。
暗闇の瞬間に、一瞬だけ瞳を瞑り、その涙を流させる……。
そして、遥香は眼を開いた。
「ウサギぃぃ………、サリちゃん……、……返してよ」
「ひっひっひっひっひ」
真っ赤な眼をしたウサギの手には、あの、大きく美しい、剣が握られていた。
「ひっひっひっひっひ」
轟、轟、とした音が、更に大きく耳に木霊していた。今はウサギの狂った笑い声がそれを邪魔し、耳に反響しようとしている。
遥香はごしごしと眼をこすりながら、ぐずぐずと泣いて、その黒い土をとぼとぼと歩いていた。
もう、そこには誰もいなかった。
兵(つわもの)どもの姿はなく、周囲には建物だけの存在感だけしかない。漆黒に染まる空間に、洋服を着ていない、白い毛皮のウサギだけが激しく笑い狂っている。
サリの姿はなかった――。絶叫に笑い狂っているウサギが、サリの握っていた剣を持っている。
轟、轟、轟………。竜巻のような喧騒が、今度は、ウサギの笑い声を、掻き消そうとしていた。
遥香はウサギの眼の前で歩く事をやめた……。
「ひっひっひっひっひ」
ウサギの首は連続して左右に振られている。それはちぎれてしまいそうに激しく、恐ろしい。悍(おぞ)ましい振り子は、遥香の事を間近で見下ろしている。
凝結した、充血の眼(まなこ)。頭部にまでむきあげられた、裂けた口が笑っている。
「ひぃあ~っはっひっひっひ」
「サリちゃんを、返してよ………、バカっ………」
遥香は弱く弱く、弱く、泣きながら。――ウサギの頬をはたいた……。
轟、轟、轟。
ウサギの頬を叩いた腕は、そのままで固まったようであった……。脚も、身体も、動かない。