新しい世界
――あのねえ、未央奈、――新内は間を強調させて言う。
堀は不愉快そうにグラスをあけ、新内の言葉を待った。
「あんたがとっ捕まえたあの少年、妹を殺しちゃったっていう、あの事件があったでしょう?」
「それがなに」
「今でも手紙が届くそうじゃない」
「…ええ、そうね」
堀はぼそりと呟いた。微かではあるが、顔は安楽に満ちている。
「あんたが大事な事を少年に諭した、あのお涙頂戴の事件はねえ」
話の途中で――そんな言い方するな! ――と堀が声を上ずらせた。
「いいから聞きなさいよ、あの、少年をあんたが更生させた事件はねえ、あんたがまだ二十と五ぐらいの時よ」
堀の動きが僅かに鈍くなった。そして、ぴたり、と止まる。
「十七を越えれば特定少年、二十歳を越えれば少年法も利かない歳なのよ、それはその歳が立派な大人だっていう証拠」
堀は黙ってグラスを大将に差し出した。――はいはい――と言って大将がなみなみと日本酒を注いだ新しいグラスを堀の前に差し出した。
堀はそれをぐびりと呑む。その一口でグラスの揺らめきが半分も下に移動した。
「お嬢は立派な大人だよ」
「あんたは刑事課にいないからそう言うのよ、いいから現場に来なさい、したら私の気持ちもわかるってもんよ」
堀はグラスに残った酒をちびちびといく。
「何処の馬の骨とも知らない若僧に、あれだこれだと意見されてみろ、」
「意見ったって、一目置くほどに良い意見なんでしょう?」
「良い悪いじゃないのよ、もう仏は一生眼ぇ覚ます事はないの、だらだら道徳道徳と念仏説いてる場合じゃないでしょう、それは仏にしてあげる事よ」
「彼女のやり方は私も知ってる。だから未央奈に紹介したの」
新内はカウンターに乗せた両肘に体重を掛けて、中途半端に堀を見た。
「あんただって随分前に気に入ったとか、騒いでたじゃない」
堀はちびちびとやっていた酒を一気にあける。
「ようは彼女に対して矛盾してるんでしょう? 認めてるんだけど、どうしても腹が立つ、それは彼女が有能な証拠じゃん」
「でしゃばりなのよ」
堀は渋い顔で新内を見た。
「あいつのやってる事はもうケア何とかの仕事じゃないの」
「それもお嬢じゃない」
新内はグラスの底を確認すると、堀の分も含めて大将に新しい酒を催促した。
「だいたい、私は絢音を気に入った事なんざないわよ、大した奴だと、あんたにちょっともらしただけじゃない」
堀はもぞもぞと鈍い動作で煙草を用意する。
「だぁれが気に入るかってーのよ」
新内も出した煙草を箱の上でとんとやった。それを咥えると、すぐに大将が擦ったマッチを新内の前に差し出した。
ジジ…という音が煙草の先に鳴ると、新内はすぐにそれを指の間にやり、堀に話し出した。
「ところで、今回の事件はどんなだった?」
その言葉に、堀はすぐに得意げに鼻を鳴らした。眼の前に伸ばされた大将の手が引っ込まぬうちに、堀はグラスを掴む。
「もう解決しましたよ」
堀は横目でちらりと新内を一瞥し、すぐにグラスを口に運んだ。
「もうお? ……なに、どんな事件だったの?」
新内はふうと遠くに煙をやった。
「花咲か爺さんよ」
そう呟かれた堀の言葉に、新内は黙り込んで大将と眼を合わせた。
――なんだい?それ――大将がきいた。
「数日前に両親が消えたって、捜索願を出してきた坊主がいたの」
堀は閉じそうな眼で大将の横の空間を眺める。
「なんでも、自分が犬の散歩に出かけて帰ってくると、もう二人の姿が消えていたんだとさ」
――誰が解決したの、未央奈?――と途中で新内が茶々を入れたが、堀は答えずに先を続けた。
「それに気がついたのは翌日、坊主が学校の時間で起きた後だ。でも、犬の散歩は試験勉強のストレス解消に、深夜に行ったんだって。その時、何気なく寝室を通り縋(すが)ったら、いつも聞こえるはずの父親の鼾(いびき)が無かったんだとさ」
「そこでいない事に気づいたのか……」
「だから気がついたのは朝だって言ってんでしょ」
堀は無理に片眉をつり上げて新内を馬鹿にした。
この堀という女は、どんなに酒に酔おうが、こういう仕草だけは通常時と変わりなくこなす事が達者であった。
――いいから話しなよ――と新内が促(うなが)す。
堀は反応無しにむんと唇の筋肉を動かした。
「警察に話してる段階から少し可笑しかったのよ…。まあいい」と、堀は酒をあおって先を続けた。「両親の失踪から三日が過ぎてから、坊主は捜索願を出した」
そう言い終えた後で、堀は赤ら顔できっと新内を見つめた。
「その坊主の家がある周辺でねえ、昔っから頻繁に動物が虐待される事件があったのよ」
新内と大将はうんと頷く。
「こうきたら、もうその話がうちに来るまでには時間は要らないわ」
堀は正面を睨んでぐびりとグラスを傾けた。
「殺人事件よ」
大将はそこで――ありゃりゃ――と声を出していた。
「それでどうした? その坊主が犯人だったの?」
新内はそう言った後で落ち着き直し、質問したい順番を頭の中で組み直した。
「過去の動物虐待事件も、その子の仕業だったの? ストレス解消の」
「私はまだ何にも言っちゃあないわよ……」
堀は冷めた眼で新内をちらりと一瞥した。
不本意ながら、新内は言葉を引っ込めた。――とぼしっ放しの新内の煙草を、大将が灰皿で消す。
「そういった過去の事も含めてね、私がその坊主んとこに行ったのよ。そういう過去のお蔵は切っ掛けが無いともうどうにもならないからね」
「そうだろうね」
新内はまた新しい煙草に火をつけた。
「なに、未央奈が坊主んちに出向いたの?」
堀はうんむと一つ頷いた。
「そこでねぇ、随分と綺麗な花が咲いてたんだ……」
堀は抑揚にそぐわぬ、不味そうな顔つきで最後の煙をぷかりと浮かべた。
「そこで私が坊主に、『これは何だ?』と尋ねるとね、坊主は『花壇を作るのは面倒ですんで』て答えたのよ」
黙り込む新内に、堀は――この意味がわかる?――と尋ねた。
「それは花壇に咲いてた花じゃないの?」
新内がきいた。
堀は眼を瞑って首を振る。「庭にねぇ、そのまんま何十本か、スミレが植えられてたの」
「花壇が無いのね……、なるほどね」
新内は戦慄した表情で溜息をついた。対象は――何がわかったの? ――と首を傾げている。
「私はねぇ、そのスミレを見て坊主に、『これはなんだ?』てきいたんですよ」
堀は大将に説明する。
大将は――ふんふん、――と理解出来ていない。
途中から新内が口を挟んだ。
「未央奈はね大将、『綺麗な花だねえ、これは何という種類の花なの?』というつもりできいたのよ」
堀は短く頷いた。
「それが、なに、なんなんだい?」
大将は新しい煙草を用意しながら淡々と涼しげにきいた。
「つまりね、坊主は私に『これは何だ?』ときかれて、花壇の上に花を植えていない事を不審がられたと思ったんですよね」
「それはつまり、私達警察の視点から言う、『怪しい』という言動なんです」
続けて二人が説明した。それでわかったのかわからないのか、大将は――はあぁ~――と長い息をもらした。