言霊砲
文月三春はそのまま、コツコツとヒールで床に心地の良い音を立てながら、フロアの奥へと姿を消していった。
祐希はのしのし、と両手で二回ほど天雲を叩いた。
「人間って、自分で見える範囲でしか理解できないから嫌いだよ~~、その人に何があったのか、なんとなくわっかんじゃ~~ん。じゃなきゃそんな暗い顔、しないし、あんな明るい顔も逆にしようとせんよ~~。なんでわからんとぉ?」
グリフォンは小さな羽根をぴんと張り巡らせるように大きな欠伸(あくび)を浮かべて、うつ伏せになってから後ろ脚を伸ばしっきって、非常にリラックスした体勢をとった。
「まだ、なまりが抜けきってなかったんだね……。ずいぶん前に、もうなまってしゃべるのはやめたのかと思ってたけど」
「なまっとらんとよ、そもそもが。これが標準語っちゃ」
「ふう~ん。まいいけどさ。若葉幸助、祐希が寝てる間に、病院で何針か縫ったんだよ」
祐希は眼をかっぴらいて驚愕した。
「え! 泣いた? 泣いたと?」
「泣かないでしょ、大人は……。ただ、その次の日ぐらいからだよ、トレーニングに朝ジョギングを始めたのは」
祐希はあぐらをかく。人差し指を、ぽつん、とあごにあてがった。
「ふう~ん。強くなりたいのかなぁ……」
グリフォンは前脚を舐(な)め始める。
「知~らない。僕人間の経験ないから。グリフォンは生まれた時から強いもんだし」
祐希はそのままでグリフォンを一瞥する。
「天使は?」
「強いか弱いか? う~ん……、昔は、そりゃ勇ましかったよ。たぶん、神様の次にこの世で強かったんじゃない?」
「恋のキューピッドも?」
「そもそも、恋のキューピッドの一族も、狩人(かりうど)の血筋だからね、武具の扱いに関してはピカイチだったんじゃないかな」
祐希は強気な顔で、まっすぐに延々と続く天雲の世界を睨みつける。
「もし、祐希が弓矢使えたら……、この前の奴ら、ぎったんぎったんに射抜いちゃうんだけどな! こう、ぴゅん! ぴゅん! って……」
「素手のケンカに弓矢使っちゃあダメだよ」
祐希は大きな溜息を吐く。
「はあぁ~あぁ~……。なんっか、こう、胸が苦しくなるんよね~……。まるでダメの助見とると……」
「それわかるな」
「なんでなん? あんなに、魅力的なのに……。なんでみんな気付かんの?」
「そろそろ、気づく頃かもね」
宮下朱莉は、女子トイレで数人の女子社員と会話していた。
「ほんとですよ。若葉さんが……、マジかっこよかった~……」
「若葉さんって、元ヤンキー出身かなんか?」
「違いますよ、そうです……。私の為に、ビビらずに助けてくれたんです、あんなギャングみたいな人達を相手にですよ」
女子トイレの個室のドアが開いた。中から出て来たのは文月三春であった。
宮下朱莉達女子社員は恐縮して、会話をストップし、鏡に向かってメイク直しを再開させる。
文月三春は手洗いを済ませて、きつい視線で、宮下朱莉の事を鏡越しに見つめた。
「宮下さん……」
「あ、はい!」
宮下朱莉は背筋を伸ばして、鏡越しに文月三春を見つめ返した。他の女子社員達は、そそくさと女子トイレから退出していく。
「立ち聞きする気はなかったんだけど、ごめん。その話、本当なの?」
「あ、え? あ、若葉先輩の話ですか?」
文月三春は、口をへの字にして、頷いた。
「そう」
「本当です!」
宮下朱莉は、誠実に、鏡越しの文月三春を見つめた。
「酔っぱらいの厳ついナンパ野郎達を、撃退してくれました……。私は、腕をひっぱられたり、胸触られたり、強引に連れてかれそうになってて……、そこに、若葉先輩が現れて」
「ボコボコにした?」
文月三春は、鏡越しに、宮下朱莉を見つめる。
宮下朱莉は、小首を傾げて、眼を逸らした。
「じゃあ、ボコボコにされたのね」
「はぁい……。先輩、ケンカした事なかったみたいでした……。それなのに、君達、そっこく手を引きなさい、とかって…かっこよかったな~」
「なんでそんな無茶な事……」
「ずたぼろになった後で、先輩笑ってました。『心も身体も、強い人みたいですか』って……」
文月三春は、視線の行先を無くして、言葉を失った……。
「そう言われた時、私なんか、ときめいちゃって………。どうかしました? 文月先輩」
文月三春は、我を取り戻して、今度は鏡越しではなく、隣に肩を並べる宮下朱莉に振り向いて少しだけ笑みを落とした。
「あるがとう、じゃあね。私ちょっと、行ってくる」
「行って来るって、どこにですか? 営業ですか?」
「行くべきところによ」
文月三春は急ぎ脚で女子トイレから退出した。宮下朱莉は呆気に取られて、彼女が退出していったドアに、小首を傾げていた。
グリフォンは囁(ささや)く。
「ほらね。ようやく肝心な運命の時間が動き出した……。今の段階で、もしかしたら、二つの恋の運命が若葉幸助を待ち構えているかもしれない」
祐希は、ごくりと唾(つば)を呑み込んで、下界の人間界を真剣に見下ろしている。
文月三春は、その名前を呼んだ。
若葉幸助は、作業を中断して、とぼけた顔で後ろを振り返る。
「はい、……なんでしょうか?」
「見直しました……」
「え?」
文月三春は、数秒間だけ視線を別の場所へ移してから、また、若葉幸助を見つめた。
「宮下さんから聞いたの……。全部、聞きました。その傷の理由……」
「あ、あは……」
「正直…、見直しました……。若葉君の事……」
若葉幸助は、照れ臭そうに、笑うのやめて、短く首を振った。
文月三春は、蛍光灯に茶色に煌めくショートカットを右手ではらってから、改めて若葉幸助を見つめた。
「バカにして、ごめんなさい……。見る眼ないのは、私の方でした……」
若葉幸助は、俯けていた真剣な表情で、文月三春を見上げる。
「じゃあ、それじゃあ……、俺と」
「ごめんなさい……。私は、もう好きな人がいるんです。本当に、ごめんなさい」
若葉幸助は、痛む胸を無視して、無邪気にはにかんだ。
「は、はは、あの、な~んだ、みっともない、ごめんなさい、あのすいまxせん何度も何度も告白ちらかしちゃって……、はい。ちゃんと、忘れます」
文月三春は、ゆっくりと頷いてから、弱い笑みをこぼして、その場を去って行った。
若葉幸助は、呆然と口を開けたままで、また作業に戻った。
祐希は深い溜息を吐いた。
「な~んか今、変だった、自分の心が……。三春さんに、断ってえ~、て、思っちゃった……。まるでダメの助に、告白しないでえ~~、て思っちゃったよ、はっは」
グリフォンは、非常に冷静に、黒目がちな円らな瞳で、与田祐希を一直線に見つめた。
「なんて言ったの、祐希……。今、なんて?」
祐希はグリフォンを一瞥して、無垢にはにかむ。
「えーだからぁ、まるでダメの助に、告白しないでぇ~って思ったっちゃ。三春先輩に、告白断ってぇ~~って、思ったっちゃよ、変でしょ?」
グリフォンはそのまま、微動だにしない視線で祐希に囁く。
「祐希……、もしかして、それは、若葉幸助に、恋をしたって事じゃなくて?」
「え?」
「祐希……。天使族が絶滅の一途を辿った理由はね……。人間に恋をしてしまったからなんだよ!」