未来卵
「それ綾ティーの鏡でしょうよぉっ! レンタル中でしょうがあんたっ‼」
「あぁ? だからなんだよ……」
磯野波平は顔をしかめる。彼には、何が悪いのかがわからない。
「女の子の化粧道具にツバ吐く馬鹿野郎がいるかこんの馬鹿者ぉぉっ‼」
磯野波平は、一度吉田綾乃クリスティーと和田まあやの顔を見てから、顔をしかめて風秋夕を睨みつける。
「ふいたんだぜ? なんか鼻くそみてえのくっついてたからぁ……」
吉田綾乃クリスティーは「鼻くそ」と、またフリーズした。
「は~なくっそとか言ってっ!」
和田まあやは手を打って大笑いする。
「鼻くそは貴様だろうっクズ野クズ平!」
「く、てめえケンカ売ってんのかこんにゃろう!」
磯野波平は手に持っていた手鏡を畳に投げて、その場を立ち上がった。
風秋夕は更に驚愕する――。
「な、な、投げたのあんた今っ!? 優しく貸してくれた綾ティーの私物を! 投げ飛ばさなかったいまあ!」
「んんなん、ケンカ中だろうが」
「あったま狂ってんのかてめえはっ‼ てめえの事を野蛮人(やばんじん)って言わないで誰を野蛮人って言えばいいんだこのペキン原人っ‼」
「ああ? 何だよ、俺が全部わりい、みてえな空気出しやがって……」
磯野波平は、畳に落ちている手鏡をひょいと拾って、あぐらをかき直してから、髪形を整える続きを始めた。
「これ、あんがい見やすいのう彩っちよ~」
「それ……、あげる」
「うっそプレゼントかよっ!!」
磯野波平は吉田綾乃クリスティーを凝視して笑顔を作った。吉田綾乃クリスティーは絶妙な苦笑で、「あは、うんいいよ、あげる」と呟(つぶや)いていた。
風秋夕は嫌そうな顔のまま、磯野波平の無自覚に驚愕している。
和田まあやは笑いながら言う。
「まるく収まったところで、カラオケでも行こっかあ?」
地下六階の北側の壁に二つ存在する巨大な扉の右側の巨大扉の奥の通路に在る〈カラオケ大部屋〉では、和田まあやと磯野波平が絶好調であった。しゅんとテンションが微妙になっている吉田綾乃クリスティーには風秋夕が新しい手鏡をプレゼントすると約束していた。
終始大騒ぎであったカラオケを二時間と歌い終え、四人は地下二階のエントランスフロア、その東側に在るラウンジのソファ・スペースへと移動した。そこには齋藤飛鳥と稲見瓶がいた。
広大なフロアには、雰囲気を重視したBGMとして、アンジー・マルチネスの『イフ・アイ・コールド・ゴー』が流れている。
稲見瓶は言う。
「まあやちゃんが、最初の頭NO王の時じゃなかったかな、「ボ」から始まる電圧の大きさを表す単位は? という問いで、自信満々に手を上げたんだ。Nで表しますよねそれって、てね。答えはVなんだけどね」
風秋夕が笑いながら続く。
「その時さ、まあやちゃん、早押ししてて、押してるボタンが別の回答者席のボタンでさあ、もうやりたい放題だったな! 今日のてめえみたいにぃ!」
風秋夕は急に磯野波平に怒鳴った。
和田まあやは笑い。、磯野波平は「だ、なんだよてめえは」と顔をしかめている。
齋藤飛鳥はきょとん、としてきく。
「なんかあった?」
「ううん、飛鳥さんに言うほどの事では無いんです」
吉田綾乃クリスティーは笑顔で答えた。
齋藤飛鳥は眼で威圧して、それから笑みを浮かべる。
「え逆に気になるよ、そんなの……」
文句の言い合いを開始した風秋夕と磯野波平を尻目に、吉田綾乃クリスティーは笑顔で齋藤飛鳥と稲見瓶に説明する。
「貸した鏡に、波平君にツバ吐かれました。あは」
「い……」
齋藤飛鳥は「い」の顔のままで、しばらくフリーズした。
稲見瓶はポーカーフェイスできく。
「それは、なぜ?」
吉田綾乃クリスティーは答える。
「鏡が汚れてたみたいで、……ぺっ、きゅっきゅ、みたいな……。鏡クリーナーの代わり、みたいな感じでツバ吐いてました」
「ええ?」
齋藤飛鳥は磯野波平を一瞥してから、信じられない、という顔で吉田綾乃クリスティーに言う。
「貸した、んでしょう? 鏡を、波平っちに。貸した鏡に、ツバ吐いたの? こいつ」
吉田綾乃クリスティーは笑顔で頷いた。
稲見瓶は眼を瞑る。
「最低すぎる……」
齋藤飛鳥は肩を竦(すく)めてから、また磯野波平を一瞥して、大袈裟に苦笑してみせた。
「ひど……。おもろ」
「どこで起きた事件?」
稲見瓶は真顔で聞いた。
「むじレス三号店、もんじゃ焼き食べてから起きた事件」
吉田綾乃クリスティーは笑顔で答えた。モチベーションは回復した様子であった。
「あ、無人レストラン? 三号店、行ったんだ、わし行った事ないんだよなぁ~……」
そう呟いた後で、齋藤飛鳥は、風秋夕と磯野波平のけなし合いに「う~る~っさいわっ‼」と怒った。
和田まあやはメニュー表を下げて、齋藤飛鳥と稲見瓶の顔を見つめてから、吉田綾乃クリスティーの顔も一瞥して言う。
「ねえなんか頼もう? テーブルが泣いてるよ、寂しいって。飾りでもいいからなんか置いてあげよ?」
齋藤飛鳥は心機一転、といった悪魔のように美しい座視で、和田まあやに言う。
「じゃー私、アイスカフェラテね……」
「まあやアイスコーヒー飲も」
「あ、じゃあ吉田が注文しますね」
「いや、俺が注文しよう。綾ティーは何がいい?」
「あ~うちはぁ~、フライド・ポテトと、ビール、クリアアサヒで」
「イーサン」
稲見瓶は、召喚した電脳執事のイーサンに、アイス・カフェラテ、アイス・コーヒー、クリアアサヒ、フライド・ポテト、ファンタ・グレープ、ミックスナッツを注文した。
風秋夕と磯野波平の小競り合いが響く広大なフロアに、ウィル・スミスの『メン・イン・ブラック』のインストのみの楽曲が流れる。
齋藤飛鳥は苛(いら)ついて言う。
「いい加減にしなさいよあんたら、ほんとに、もうやめろ」
齋藤飛鳥の感情の込められた声質を瞬時に読み取り、ぴたり――。と二人は口喧嘩をやめた。
少ししてから〈レストラン・エレベーター〉に皆の注文の品が届いた。それを風秋夕と稲見瓶が颯爽(さっそう)と丁寧(ていねい)に分配した。
地下二階のエントランスフロアに、2パックの『ゲットー・ゴスペル』が流れる。
稲見瓶は楽しそうに言う。
「工事中の企画で、当時の欅坂との合同忘年会でだったと思うんだけど、Aから数えて17番目にくるアルファベットは? ていう問いに……。ああ、みんな、やってみて。Aから数えて、17番目にくるアルファベットはなーんだ?」
齋藤飛鳥が答える。
「Q?」
「正解。まあやちゃんはその正解をのがしたんだけど、その理由が秀逸でね、まあやちゃんは、アルファベットを数える途中で、MMMのところで迷ったんです、と言うんだ」
「MMM?」
齋藤飛鳥が苦笑しながら復唱した。
「LMN、の事ぉ?」
「正解。MMMは無いんだよ。なのに、まあやちゃんはそこで迷ったとどうどうと発言してた」
和田まあやは「違うの!」と弁解している。
磯野波平は大笑いしながら言う。
「て~んねんかよぉっがあ~っはっはっは!」
風秋夕は舌打ちをした。「お前がな」と声を消して呟(つぶや)いている。
稲見瓶は話題を続ける。