未来卵
秋田県の北秋田市阿仁笑内にあるとある山。その山の麓にあるキャンプ地、〈センター〉に姫野あたるが来てからもう五日目であった。
木製の壁掛け時計の時刻はPM18時22分。姫野あたるの和田まあやの思い出話は昨日から終わらない。夢中になって話している姫野あたるに、夏男はにこにことしながら美味しいアイスコーヒーを淹れた。
「ちょうどまあやちゃん殿が指紋認証をするちょっとまえでござった。まあやちゃんは火傷をして指紋認証できなかった事を報告しようと、説明したのでござるが、その説明の仕方が、レとミの指を火傷しましてぇというものでござったでござるよっ草! 火傷したのは人差し指と中指なのでござるが、まあやちゃん殿は五本の指をド、レ、ミ、ファ、ソ、で認識しているのでござるよ、ははあ、それには笑ったし、驚いたでござる! 草っ」
「え~、はいコーヒー」
「あ、かたじけない」
夏男は手の平にあごを乗せ、にっこりと微笑んで言う。
「この時期って集中的にいっつもまあやさんの事考えてんだね」
姫野あたるは照れ臭そうに、後頭部を撫でた。
夏男は微笑んだまま、窓の奥。遠くを見て言う。
「俺もねえ、大事な人達の事、な~んかずっと頭に浮かんでる事ってよくあるよ~、ダーリンみたいに話し相手こそあんまいないけど、こうして、じ~っと思い浮かべて、考えるんだ……」
姫野あたるはアイスコーヒーを一口味見してから言う。
「変な顔をしてでござるか?」
夏男は微笑んだまま、遠い眼で言う。
「そうそう変な顔して、こう不気味なね、化け物的なね、この世の闇が集結したような、ゾンビが腸抉(はらわたえぐ)られてる場景のような、残忍極(ざんにんきわ)まりない誰が残忍極まりない顔だようっ‼」
姫野あたるは真顔で驚く。
「んん、いやノリ突込みが独特ぅ!!」
夏男は可笑しそうに笑って、アイスコーヒーを飲んだ。煙草に100円ライターで火をつける。姫野あたるも、その火で煙草に火をつけた。
「まあやちゃん殿は、会場にキッズしかおらぬ英検4級に1度落ちるし、『びびらずに箱の中の文字を読め』というコーナーでは、蛇(へび)の入った箱に顔をつけ、壁のようなものをスライドしていき、少しずつ蛇をかわし、恐る恐る文字を見つけて読んだでござるが、『あったあったはい! オクラぁ! オクラだぁオクラ! オクラぁ!』と大騒ぎした回答の正解はイクラでござったし」
夏男は笑う。
「あはっは、面白いねえその子~!」
「日村さんの50歳を全力でお祝い! カラオケに合いの手! というコーナーでは、日村さんの18番(おはこ)、『田園(でんえん)』を『たえん』と読み間違えるでござるし、草っ」
姫野あたると夏男は笑い声を上げた。
「おみくじを引けば大吉を吉大と読む。草っ! まあやちゃん殿は本当に笑いの神が降臨(こうりん)している人でござる」
夏男はうまそうに煙草を吸った。姫野あたるも、肺胞の奥に煙草の煙を送り込んで、深く煙を吹き出した。
姫野あたるは楽しげに話を続ける。
「大勢の人の中に女性が一人いる事を何という? というクイズでは、まあやちゃん殿は激しく記憶を垣間見ながら『なんかリマンド、みたいな』と、なぜか『リマンド』にこだわりを持ち、不正解と言われると『これ違う私知ってる知ってる』と考え直し、『ハネ、ハネムーンみたいな』とまた何か別の言葉を思い出す始末。ちなみに正解は、紅一点、でござる」
夏男はにこやかに言う。
「ダーリン……、恋をしてるね?」
「う……うぅむ。はは、照れ臭いでござるな」
姫野あたるは、後頭部をさすって苦笑した。
「恋に間違いはないでござろうな……。大好きでござる」
夏男は口元を引き上げて、姫野あたるを見た。
姫野あたるは、笑みをやめる。
「しょ、小生……、食われそうで、ござるか? 美味しくないでござるよ、小生の肉は……」
「あそういう顔に見えちゃってる?」
「見えるでござる……。牙をむいた妖(あやかし)か何かに……」
「あこれ笑ってるから。いいね~、て顔。憶えといて。さ、シェイクハンドを……」
夏男は姫野あたるに握手を求める。姫野あたるはその握手に熱く応じた。
「さ、まあやさんの続き続きぃ!」
「おほん! そうでござるな……。時を同じくして、続いての『奥の細道』を書いた事で知られる江戸時代に活躍した俳人は誰? というクイズでは、まあやちゃん殿は『小野妹子(おののいもこ)』と元気満々に答え、続けて『杉田玄白(すぎたげんぱく)』と解体新書の著作者を出し、最終的には『鑑真(がんじん)』と、仏の道に準ずるお人の名前を堂々と答えたのでござる。正解は『松尾芭蕉(まつおばしょう)』でござるがっと、草っ」
夏男は楽しみながら、新しい煙草に火をつけた。
姫野あたるは灰皿に煙草を揉み消して、アイスコーヒーをで喉を潤し、嬉しそうに話の続きをする。
「更に言うと、まあやちゃん殿はのぎ英語という番組でマイケル・ジャクソンのビート・イットを歌ったのでござるが、その内容が『ビール~、ビール~、飲まないとビールビール、ちょっとトッポギ! ちょっとしょっぱな! イカゼ、バロ! ブス、ゴボウ、フャイヤー! ジャスビール』と歌ったでござる。大草原っ! …っ…。まだまだあったでござるが、はあ~驚きすぎて、心に暗記できたのはこれだけでござった……。どの英語の歌もハチャメチャにぶっとんだ歌詞でござった草っ、そっ、そもそもがっ、日本語入ってるでござるしっ、草ぁっ!」
夏男は顔を悩ませる。
「んん~? 恋じゃなくって、お笑い感覚、なのかなぁ~?」
姫野あたるは笑い終わった後で言う。
「容姿も美しい人でござるよ。それに、小生はまあやちゃん殿の面白いところにも恋しているのでござる。今も昔も、まあやちゃん殿に、夢中でござるよ」
8
二千二十二年十月五日――。30th SGアンダーライブ~大阪公演~ファイナル。
地下六階の映画館のような広大な面積を誇る〈映写室〉に集まったのは、風秋夕と稲見瓶、磯野波平と姫野あたる、駅前木葉と天野川雅樂、来栖栗鼠と御輿咲希、宮間兎亜と比鐘蒼空の十名。即(すなわ)ち、乃木坂46ファン同盟の十名全員であった。
風秋夕は腕時計のヨットマスターを見る。時刻は十八時四十五分であった。
「四十五分、もう少しだな……」
稲見瓶は声で頷(うなず)いた。
「とにかく、まあやちゃんは今日のアンダラがファイナルみたいだからね、気合が入る」
磯野波平は涙眼で言う。
「俺よ~、まあやちゃんのよ~、アンダーズラブ聴いたらよ~、くうーっ‼」
姫野あたるは、巨大スクリーンを見上げていた。
来栖栗鼠は、悲しそうな表情を浮かべて囁く。
「雅樂さぁ~ん、まあやちゃんって、今日でいなくなっちゃうのぉ? 僕嫌だよ~」
「いや、十二月四日までミーグリあっからな、別れ方は違う形になるだろうぜ」
天野川雅樂は巨大スクリーンに映る和田まあやをじっと見つめていた。
「はいよ」
宮間兎亜は、御輿咲希にアイス・カフェ・ラテを手渡した。
「アイスコーヒー?」
「ラテよ。アイスカフェラテ」