未来卵
ふと星空を見上げる時、思う事がある。母親と、天国の愛犬と、スタッフさん達やまあやちゃん達、乃木坂46が、幸せでありますようにと――。
こんな時間に浸っていたから、今すごく、わがままを言いたい……。
このまま、ずっと、時が止まってしまえばいいのにと――。
確かに受け取った、愛のようなもの。そういう難しい事はよくわからないけど、確信はある。支えられていたんだと……。
これからも、がんばるよ。
君がそう言っくれてる気がするから。
何も消えない。生涯の愛を誓うよ……。
何もかも、絶対に、忘れない……。
ありがとう――。
「まあやちゃん、卒業、おめでとうございます……。まあやちゃーーん!」
稲見瓶は、瞼(まぶた)の涙をぬぐって、微笑んでみる。今、きっと、11年分の自分がそうしろと言っている気がするから……。
『乃木坂の詩』が始まる――。和田まあやの、最後のセンターで……。
気づけば乃木坂46に選ばれ、気づけば登っていた坂道……。
決して楽な道のりではなかっただろう。幾度の友との別れを経験し、また、幾人との友との出逢いを経験し、いつの間にか、大きな存在へと成長していった――。
乃木坂46に、和田まあやが居た時間。
それは、まるで、未来を夢見た小さな卵が成長するまでの物語……。
本日は本当に、ありがとうございました――。
自分を信じて。
前へ進むんだ。
名もなき若者よ。
夢ならここにある。
乃木坂の詩。
乃木坂の詩。
僕らの詩。
ありがとうございました――。本当に、幸せです――。
オーディエンスがサプライズでかかげる『サンキュー・まあや』というメッセージ・カードに、和田まあやは、思いもよらぬ涙と、笑みを浮かべて『本当に幸せすぎて……。もうどうしよう。ありがとう……。嬉しすぎて何言ったらいいかわからないです』と呟きながら……。
最後、この素晴らしきステージを創ったメンバー全員で声を合わせる。本日は本当に、ありがとうございました――。
涙を浮かべたままで笑った和田まあやは、とっても幸せです――。ありがとうございました、バイバイ――。そう手を振りながら、乃木坂46としての長きに渡る時間に、微笑みながら幕を閉じていった。
アナウンスが流れるも、会場からは鳴り止まない拍手が響き渡る……。
それはやがて、大きなクラップへと変わり、その速度を上げていく――。
クラップなのか、拍手なのか、わからないほどに。
ファン達は彼女を求めている。
笑顔で登場した和田まあやと乃木坂46は、『他人の空似』がかかる中、一緒に大きくサイリュウムを左右に振って下さいと、笑顔で歌い始めた。
『ありがとうございました~!』
光り輝くオレンジのロング・ドレスで、満面の笑顔を浮かべて『感無量です!』と言った和田まあやは、気高き勇者のようであった。
最後、マイク無しで、本日は本当に、ありがとうございました――と、彼女達は頭を下げた。
和田まあやは、最後『またみんなのとこに遊びに来て下さ~い! 大好きやで~! バイビ~!』と、ファンの良く知る和田まあやの笑顔で、その偉大なる11年間最後のステージを後にしていった。
9
東京都港区の何処かの高級住宅街に秘密裏に存在する巨大地下建造物〈リリィ・アース〉その地下六階の〈エクササイズ・ルーム〉にて、和田まあやと稲見瓶は身体を動かしていた。
二千二十二年十月十二日の、PM八時数分前であった。
首にタオルをかけた和田まあやは、四方の背の高い壁が鏡張りの〈エクササイズ・ルーム〉の乃木坂46のBGMをかけてひたすら力を抜いて踊っている。
一方、稲見瓶も首にタオルをかけて、ベンチに腰掛けながら、右腕を鉄アレイで鍛えながら、和田まあやのダンスを見守っていた。
「イーサン、はぁ、音楽、止めていいよ…はぁ」
和田まあやは息を整えながら近くの大型ソファに勢いよく跳び込むように座った。
稲見瓶は鉄アレイを床に下ろし、拍手する。
「二曲連続だと、息切れするんだね」
「一曲でも息切れするよ~~、はぁ~疲れた!」
和田まあやは遠くの鏡に映る自分を見つめながら、大きく手を上げた。
「イーサン、苺味(いちごあじ)のプロテイン、欲しいです!」
畏まりました――。何処からともなく、電脳執事のイーサンのしゃがれた老人男性の声が室内に応答した。
稲見瓶は和田まあやの座る、その並びにある大型ソファに、四メートルほどの間隔を開けて座った。
「十一月の八日に、442年ぶりの皆既月食と、ああ、惑星食だね。が同時に見れる日があるんだ。まあやちゃんはその日、リリィに来れるかな?」
「かいきげっしょくう? あ~~んとね、……ちょ、手帳てか、ケータイ見ないとわっかんないかも。何、月ぃ?」
「うん。俺も天文学にはそんなに詳しくないんだけど、月が地球の影の中にすっぱり入って、月全体が暗くなるのが月食で、皆既月食の場合は、半月月食、部分月食、皆既月食、そしてまた部分月食、半月月食、の順に変わっていくみたいだよ。まあ、打ち上げ花火みたいなものかな」
「あと、わき臭せえ、とか言わなかった?」
稲見瓶は無表情で、メガネの縁を持ち上げて、メガネの位置を修正する。
「……わき? とは」
「臭せえ、って……」
和田まあやは、きょとん、と頷いてから、笑った。
「わき臭せえショックだね、とか言ったよねえ?」
稲見瓶は、無表情のままで、顔の汗をタオルで拭く。
「言わないと思うけど……」
「あわき臭せえじゃなくて惑星、つったのかも!」
和田まあやは真顔で新しい発見を閃(ひらめ)いた科学者のような表情で言った。
稲見瓶は、ほっと溜息を吐く。
「それなら言った……。惑星食だね。決して、わきの匂いにショックを受けた比喩(ひゆ)じゃない。しかし相変わらず凄い空耳だ、タモリさんもきっと驚く」
和田まあやは己の特技でもある空耳に大笑いした。
稲見瓶はそんな和田まあやを見つめて微笑む。
「どっちも昆虫なんだけどね、プレゼントされるんなら、コックローチと、ドロハマキチョッキリ、どっちがいい?」
和田まあやは、存分に笑い終えた後で、「えぇ?」とその顔を稲見瓶に向けた。
「え何と何? 虫ぃ? 虫いらないよぉ」
「コックローチと、ドロハマキチョッキリ」
和田まあやは小首を傾げて考える。
「ん~~いやだったらぁ~~、コックローチ、かなあ? …ブローチ、みたいだし」
「ドロハマキチョッキリはね、宝石昆虫と言われるぐらいに美しい見た目をしてるんだ。植物の葉や木の枝をチョッキリと切り落とす習性を持つ昆虫なんだけどね、耳の無い象が昆虫になったような不思議な見た目をしていて、金色っぽく光ったりする。身体は構造色だから、陽の光のあたり具合でその美しさが変化するんだ。残念だったね」
「え、コックローチは?」
「コックローチは日本語でゴキブリだよ」
「うげっっ‼‼」
稲見瓶はソファに脚を組んで可笑しそうに言う。
「まあやちゃんの耳は、不思議とダウトを選ぶ魔法の耳だね。どうやら発音や響き、その言葉の印象に反応するみたいだ。パルプンテとメラ、使うならどっちの魔法がいい?」