恐竜の歩き方
「この夜が終わってほしくない………。さよならは言わないで………。ダーリン、ただ僕を抱き寄せてくれ………。この夜を終わらせたくない………。しばらくこのままでいよう………。明日のことは忘れよう………」
駅前木葉は眼を開いて、その眼を潤(うる)ませていた。
磯野波平は指の関節を鳴らしながら、樋口日奈と、和田まあやの顔を一瞥していた。
稲見瓶は続ける。
「ダーリン、今夜は僕を愛してくれ………。朝の気配を、君の天国のような光で追いかけよう………。君の腕の中で、僕は強さを見いだせる………。だから僕を愛して、僕のハートを君と一緒に連れていって………。ね? なんとなく、わかるかな?」
姫野あたるは、照れ臭そうに、そわそわしている。
風秋夕は嫌そうに姫野あたるに囁く。
「突っ込まねえからな……。ダー、リン」
樋口日奈は大きな瞳を煌めかせて、あごの前で両手を合わせて稲見瓶を見つめた。
「素敵ぃぃ! え、いつの時代の映画?」
風秋夕が答える。
「俺達の親が、生まれてから、だいぶ大きくなってきたぐらいなのかな、あの年代のキャストって……」
稲見瓶が応答を引き継ぐ。
「1983年に公開された邦画だよ。原作はもっとずっと昔だけどね。この曲の里見八犬伝は、1983年だ」
樋口日奈は驚く。
「邦画なのに、英語の曲なの? 最後……」
稲見瓶は頷いた。
「画期的だっただろうね……。俺にとっても、里見八犬伝もこのエンディング曲も画期的だった。その衝撃より、ひなちまの恐竜の歩き方は、まるでね……、そう、ビッグバンみたいだった。そういえば、坂之上君は、元気にしてるの?」
2
二千二十二年八月九日――。そこは〈リリィ・アース〉地下六階の北側の壁面奥に存在する〈無人・レストラン〉一号店。この日、乃木坂46一期生である樋口日奈は、磯野波平とそこで夕食を取っていた。
樋口日奈は私服の中でも、外出用の特別な洋服を着てきていたが、磯野波平が白いタンクトップに派手な首飾り、耳元に光る金のフープ・ピアス、指先に数々と鈍く光るシルバーリングに、だぼだぼの白いニット帽、黒いだぼついたズボン、などを着てきていた為、厳(いか)つい人と食事している気分であり、想像していた少しロマンティックな異性との二人での食事会とは、だいぶ差異のある時間になっていた。
風秋夕と稲見瓶は、二階の東側のラウンジに滞在中であり、何名かの乃木坂46とそのOGも彼らと共に滞在中であった。
〈無人・レストラン〉一号店の店内には、雰囲気を重視するBGMとして、スマイル&サウススターの『テル・ミー』が流れている。
磯野波平は横柄な態度で座席の背もたれに片腕を垂らして、にこにことしながら言う。
「ひなっちまよぉ~、バレンタインくんなかったな~、俺に。ま別にそんなん毎年ダメージ食らってっからいんだけどよぉ……。言いてえのは、乃木中のバレタイン企画ん時よぉ、四期にみかん攻撃とお手紙攻撃したろ?」
樋口日奈は、半熟卵のオムライスをスプーンで食べようとしながら、微笑んで言う。
「攻撃、じゃなくて、作戦ね? みかん作戦」
「そん時よぉ、も一っつ、プレゼント攻撃したろ?」
磯野波平は片眉を引き上げて、機嫌良さそうに樋口日奈に言った。
樋口日奈は、視線を彷徨(さまよ)わせて、思い出そうとする……。
「ん? そんなんあったぁ? なんだっけ……」
「ジバンシィのプレゼント、したろうが」
樋口日奈は小さく、少しだけ跳び上がって、眉を上げて微笑んだ。
「んん! したしたぁ~! ジバンシー! あげたあ」
磯野波平は、どや顔で、立てた右手の親指を、己に向ける。
「俺の香水な………、ジバンシィだ……」
「あそうなの~、へ~」
「軽っ‼」
磯野波平は驚いた。
「リアクション軽すぎだろうがひなちゃんっ! イナッチがしょんべんの事おしっこって言った時ぐれえびびったぞ!」
樋口日奈は、不機嫌そうに顔をしかめる。
「食事中なんですけどぉ~~……」
「があっはっはっは!」
「しかもさ~……、なーんか、怖い人とデートしてるみたい」
「あぁ?」
「もっと、なんていうの、……紳士的な服はなかったの?」
磯野波平は大笑いの後、機嫌良さそうに言う。
「せっかく二人っきりなのに、ってか? ふっふん、二人じゃねえぜ、今日……」
「え?」
半熟卵のオムライスそ平皿から驚いた顔を上げて、樋口日奈は磯野波平の顔を見つめた。
「はるやまのスーツ以外、禁止だしよぉ、&二人っきりでデートなんてしちまったら、本気で俺怒られっちまうからな。呼んだよ、ひなちまを大好きなゲスト……」
樋口日奈は、その潤った瞳を笑わせる。
「え、誰? え誰だれ?」
「もう来てる頃なんだけどな。夕飯一緒に食うって言ってから……」
磯野波平は会話を替える。
〈無人・レストラン〉一号店の店内には、カール・ウルフの『アフリカ』が流れている。
「ここのオムライス、いけっだろ?」
「う~んでも、ひなのオムライスの方が美味しい」
樋口日奈はにこり、と微笑んだ。
「ちえ、それ俺のレシピなんだよ……」
「え、そうなの? ふふふ、ごめ~ん、ふふ、本当の事言っちゃって」
「ひなっちまだからしゃーねーやな。お世辞なんて、言わなそうだもんな、へっへ」
「ううん普段はちあうよ。いうよ……ん、んんふう」
樋口日奈は口いっぱいに半熟卵のオムライスを詰め込んで「美味しい」と高評価した。
「ンーフーて何だよ……。まなったんがやるやつか? うっふん~、て」
吹き出さぬように大笑いする樋口日奈の背後で、自動ドアが開閉し、そこから清宮レイが笑顔で姿を現した。彼女もお洒落な私服姿であった。
「ひなさん!!」
樋口日奈は後ろを振り返る。眉をいっぱいに上げ、樋口日奈は清宮レイに喜びの驚愕を表現していた。
「あ、座っても、いいですか?」
「ん、すあって……」
「ちま、今なんか口から飛んだぞ」
「ごめん、んふ。レ~~イ、なんでぇ? 内緒で来てくれたのう?」
「はい。偶然、通りかかったわけじゃないです。ラジオ収録の帰りなんです、えへ」
出入口を背に、通路側の右手側に清宮レイが座り、その隣に樋口日奈が座っている。磯野波平は二人の正面の席に一人ふんぞり返っていた。
清宮レイは、まじまじと磯野波平を観察する。
「波平君、そ~ゆ~服装なんだ、本当は……」
「あん? ああ、夏は涼しけりゃ何でもいーんだよ、これ全部夕の借りもんだからよ。服とか買い行くのめんどくせ~し」
「夕君がそういう格好する人って事?」
樋口日奈は驚いたかのように眼を見開いて言った。
「んんーー、なんだろな、あいつは。色んなジャンルの服貸してくれっからな、色々着るんだろうぜ。あいつが何かを一つに絞るわきゃねえだろひなちま~~」
清宮レイは「あれ?」と首を傾げて言う。
「でも夕君、香水は変えてないよねえ? いっつも、おんなじ匂いだよ、夕君……」
「エタニティでしょう?」
樋口日奈が言ったが、清宮レイは「わっかんないです」と小首を傾げた。
「ねエタニティだよねえ?」
「俺はジバンシィのウルトラマリンだぜ!」