恐竜の歩き方
「泣いて引きとめてくれる友や家族の存在は、本当に嬉しいよね。愛があるから、泣くんだもんね。引き止めるんだもんね……。だけど、もう行かなくちゃ。そこで新しい夢が、新しい成長が、新しい未来が、もう自分を待ってくれているから……」
姫野あたるの頬に、止まる事無く大粒の涙が伝い落ちていく……。
「君は、旅立ちを決めたその愛する人の出発で…、どっちが見たいかなあ? 困った顔と、笑った顔……。腕を掴んだまま放さずに、困らせたい? 笑顔で背を押して、笑わせたい?」
姫野あたるの仁王(におう)のように極まった顔面から、鼻から、眼から、涙や鼻水が溢れていく。
姫野あたるは泣きながら、うまく動かない口を、強引に囁かせる。
「笑っだ、顔っ……、見ぃるで、ござぁるぅ~~………」
「本当に、心から愛する何かを失った時、人は虚無感を覚える……。一時的に、愛しい価値を失うからだよ……。だけど、その愛しさって、その11年間って、実は何処にも行きやしない。消えたりしないものなのさ……。母や父の面影を忘れないように、友や恋人との青春の日々を忘れないように、その11年間は、君の中で、永遠の愛になる……」
姫野あたるは、強く眼を瞑り顔を極めたまま、両手を、胸の中心に当てた。
「変わらないものなんかない……。肝心な事は、変わっていく、変わり果てていくその何かを、変わらずに……、愛し続けられるかどうかなんだよ」
泣きじゃくる姫野あたるの脳裏に、新しいものと、古いものが混雑しながら、複雑な順番で、懐かしい記憶が次々に蘇(よみがえ)っていく……。
変わらないものなんかない。
肝心な事は、変わっていく、変わり果てていくその何かを、
変わらずに、
愛し続けられるかどうかなんだよ。
「愛すると、いう事は………、推しを、好きでいるって事は……、こんなにも、……。こんなにも、ファンに、人生の輝きを、与えてくれるものなのでござるなぁ……」
夏男は、弱い笑みを浮かべて、灰皿のふちにとぼっている煙草を、灰皿の中で揉み消した。
姫野あたるは、泣きながら、微笑みを浮かべる。
「僕は、ひなちまとまあやちゃんの大ファンだ。そんな僕らが、その背中に寂しい手を伸ばしてどうなる……。背中には、手を伸ばすんじゃなく、手を、振らなくちゃ」
夏男はにっこりと微笑んだ。
「そんな簡単な事って、実は全然、簡単なんかじゃなくって……。俺は何年、泣いたのかな、一人一人の決意した、その未来への旅立ちに……。でもねえ、泣いた後は、んん……悔やむ事もしばしばあったけど、でもね、泣くのは正解だって、深く実感する瞬間が何度もきたよ。夕君のお父さんの、ウパに言わせると、それがアンサー、てやつなんだろうね」
夏男は窓の外を眺めながら、姫野あたりに囁く。
「泣いていいのはその瞬間だけ。ううん、泣くのにね、本当に相応(ふさわ)しい瞬間っていうのがあってね……。そんな瞬間ってさ、卒業とか、おめでとうとか、ありがとうの瞬間で……、決してさよならの瞬間じゃないんだ。さよならの涙は、ありがとうの涙でもあるんだよ。別れや決別を悲しむ涙なんじゃなくて、それは結局、全部、感謝の積もる涙だったな、俺は……」
夏男は、また新しく泣きじゃくり始めた姫野あたるに微笑んだ。
「それだけ愛せる人に出逢えたって事なんだよ……。それは、奇跡に等しいと、俺は思うな……。運命、ともいえるのかな……。アイドルと1ファンって、それって運命って言っていいの? と聞かれたら、俺は胸をはって答える事ができる。それこそ、運命であると」
姫野あたるの記憶の中枢(ちゅうすう)に、二人の人物の映像が果ても無く映し出される――。それは何気ない笑顔であり、真剣な眼差しであり、声であり、歌であり、ダンスであり、愛の結晶であった。
唇を噛みしめた姫野あたるは、鼻筋に伝う涙をそのままに、うつむき、強く強く、その眼を瞑(つぶ)る……。
「できそこないの……、へっぽこファンでござった……。愛はある。愛は確かにある。が、いかんせん、かっこ悪すぎるファンでござった……。日々、泥汗に塗れる負の時間の中に、ぱっと咲いた、綺麗で明るい、温かい時間でござる。そこで、ひなちまと、まあやちゃんを見つけたのでござる………。まだ、幼き姿でござった」
最初は僕にも、友達や優しい母がいてくれた。
泥まみれの洋服を気にもしないで、砂場で、夢中になって妄想した冒険の中、オモチャの英雄(えいゆう)を片手に、空を飛び、大地を駆けるヒーローに恋をした。
僕の人生は、気がつくと暗闇の中で始まっていた。
もがけばもがくほどに食い込み、痛みという苦痛よりも厳しく、孤独な世界に、気がつくと僕は佇(たたず)んでいた。
いつからか、僕はそれを受け入れようとしながら、流されるままに、その路を歩いていた……。
雨がどんなに降ったって、もしそれが運命なら、ずぶ濡れのまま歩いてやる。
そう思い続けるしか選択肢の見えなかった僕に、とある奇跡が起きた。
半分大人になった頃に、その形のない声は僕に手を差し出したんだ……。
君は、君は、いつの間にやら、大人になっちゃいないかい。
埃(ほこり)をかぶったボロ着の右ポッケに置いてきた、片手に収まる冒険、僕らの全てだった、あの頃の思い出が、君を探しているよ……。
オモチャのヒーローはもう無いけれど、僕の第二の冒険が始まった……。
それが、僕と乃木坂46との、最初の出逢いだった。
「11年間の大冒険記……。小生、しかと受け止めた! 楽しかったぁぁ……、幸せでござったぁぁ……。手に汗握って興奮したでござる……。永久(とわ)の、恋を、したでござる……」
夏男は、愛を込めて泣いているその男を見つめて、どうしようもなく、微笑んだ。
「知らぬ間に、信じられぬほど知らぬ間に……。ずいぶんと、大人になっていたのでござるなぁ……。ひなちま殿、まあやちゃん殿、世界で一番かっこ悪い、どうしようもないファンでござったけれど。ありがとう――。そして、初めまして……。今日からまた、君達に恋します……」
7
樋口日奈は、顔にかかった水飛沫(みずしぶき)に肩を竦(すく)めて眼を瞑(つぶ)った。
「わっぷ……っ、あ~~、メイクしてるのに~~!」
磯野波平は後ろ手で後頭部をなでながら、片手で樋口日奈を拝むように白い歯をみせて笑った。
「わっりい、ひなちま。な~んか、よそ見すっとコントロール落ちんな~~」
「どこに眼を向けてたんだお前は……」
風秋夕が嫌そうに言った。
和田まあやは水面から大きく何度も跳び上がりながら、樋口日奈の持っているビーチボールを欲しがる。
「ち~ま! 早くぅ! あ罰ゲームあるからね、気を付けてね! んっふ」
〈リリィ・アース〉最深部である地下二十二階の施設〈プール〉は温水で、一年中水浴びを利用できる。樋口日奈と和田まあやは地下六階の〈無人レストラン〉一号店で夕食を取った後、風秋夕と磯野波平に誘われて〈プール〉に遊びに訪れていた。
二千二十二年九月某日である。――山下美月と与田祐希、梅澤美波と阪口珠美、岩本蓮加と吉田綾乃クリスティー、佐藤楓と向井葉月は、稲見瓶と共に先に〈プール〉に訪れていた。