ポケットいっぱいの涙
2021年月頃から母の昼夜が逆転し始め、夜間に徘徊して警察に二度保護されるなど、その認知症の症状は悪化していった。
2022年になり、愛宕誠は、介護と仕事との両立をあきらめ、休職を決意し、デイケアを利用するようになる。その後、介護負担は全く軽減せずに、6月にやむなく仕事を退職。生活保護は、失業給付金などを理由に『50でしょう、まだ働けますよね、働いてください』と、三度断られた。
愛宕誠は、役所に介護と仕事との両立の難しさを訴えたが、認められなかった。愛宕誠は、自分の食事を2日に1回に切り詰めてまで、母の食事を優先し、母には日に2回の食事を必ず与えていた。
その後も、介護と両立できる仕事は見つからなかった。12月に失業保険の給付金が止まった。カードローンの借り出しも、限度額に達していた。
デイケア費用やアパートの家賃が払えなくなり、翌年の2023年1月31日に、心中を決意した。
心中を決意したその日、デイケアへと最後の支払いを済ませた後、最後に残った7千円を握りしめて、母を車椅子に乗せ、二人で繁華街へと出たという。これが最後の親孝行のつもりであったらしい。笑顔ではしゃぐ母を見たのは、久しぶりだったという。
帰りの電車賃も無くなり、荒川の土手の川のほとりに座ったまま、二人は夜を明かした。この年の冬は非常に冷え込んだ。白い息を吐きながら、愛宕誠は、母と、最期となる会話をしたという――。
11年間にも及ぶ介護人生を、愛宕誠は辛いと感じた事はないという。それは、母といれた幸せな時間だと――。
生まれ変わる事ができたなら、また母の子供になりたいと――。
冒頭陳述の間、愛宕誠は背筋を伸ばし、肩を震わせ、メガネを外して、右腕で涙をぬぐっていた。
検察官が、愛宕誠被告が献身的な介護の末に失職等を経て、追い詰められていく過程を供述した。
最後の日……。
「お母ちゃん……、もう、生きられへん。ここで終わりやで」
「そうか……。あかんか……。誠、一緒やでえ」
「お母ちゃん、すまんな……」
「こっちこい」
愛宕誠は、夥(おびただ)しく溢(あふ)れる涙をそのままに、鼻水をすすり上げながら、母の柔らかなひたいに、自分のひたいをくっつけた……。
「誠は、わしの子や……。わしがやったる……」
ぽつぽつと落ちる涙と鼻水を呑み込みながら、愛宕誠は、「お母ぢゃん、お母ちゃん、大好きだよう、お母ぢゃん、ごべんな、ごめんな、おがあぢゃん」と嗚咽(おえつ)で弾む肩に力を入れて、母の首を、ぎゅっと強くしめた……。
眼を赤く染めた裁判官が、言葉を詰まらせながら言う……。
『本件は……』
刑務官も、涙を堪えるように、瞬きをしていた。
その法廷で、愛宕誠は言った。
「私の手は……、母を殺める為の手だったのか……」
法廷が静まり返るなか――。
裁判官は、涙にまともに前を向けない愛宕誠を強く見つめながらも、判決を言い渡す。
厳しい表情を浮かべる裁判官のその頬(ほお)には、涙が伝っていた……。
『尊い命を奪っという結果は、取り返しのつかない重大だが、経緯や、被害者の心情を思うと……、社会で生活し…、自力で更生するなかで、冥福を祈らせる事が相当――。被告人を、懲役2年6か月に処す……』
そして、裁判官は続けてこういった。
『この裁判確定の日から、3年間、その刑の執行を猶予する――』
殺人で猶予がつくのは、異例の判決であった。
そして、被告人の母の心情に対し、裁判官はこうも言葉を続けた。
『被害者は、被告人に感謝こそすれ、決して恨みなど抱いておらず、今後は、幸せな人生を歩んでいける事を望んでいるであろうと推察できる』
判決の最後に、愛宕誠被告に、裁判官はこう言葉を残した。
『絶対に自分で自分を殺める事のないように、お母さんの為にも、幸せに生きてほしい』
と――。そして、愛宕誠被告は、深々と頭を下げて……。
『ありがとうございました』と言った。
愛宕誠被告に言い渡した後に、裁判官はこう言葉を残した。
『本件で裁かれるのは、被告人だけではなく、介護保険や、生活保護行政の在り方も問われている。
こうして事件に発展した以上は、どう対処すべきだったかを、行政の関係者は考え直す余地がある』
裁判は閉廷された……。
山下美月は、項垂れたまま、寂しそうに法廷から去っていった愛宕誠を見つめ終えたままで、そのまま、傍聴席を立てずにいた。
すぐ隣から聞こえた嗚咽(おえつ)に、ふと山下美月は、久保史緒里へとその顔を向けた。
久保史緒里は、砕け散ったかのような、幼児の泣きべそのように、その泣き顔を曇らせていた。
「せんぱぁぁ~い……ひ、う……、わたじ、今日まで、ごんなに、づよがってたけど、けど……」
久保史緒里から久しぶりに聞く、昔と変わらぬ、そんな調子の声であった。
山下美月は久保史緒里の頭を抱き、強い視線で閉廷した法廷を見つめる。
「私たちの管轄(かんかつ)で起こった事件だよ……。しっかり、眼を開くの……。耳を傾けるの……。泣いたって、いいんだから」
「はい゛……、美月先輩……」
久保史緒里は、その弱り切った顔を、人のいなくなろうとしている法廷へと向ける。
山下美月は、まっすぐな視線で、その寂しそうな孤独な背中を思い出していた。
人が裁かれるのは罪であり、愛ではない。裁くものは人であり、けれど、感情ではなく、つまり、司法である――。司法とは、国そのものであり、私たちの代表だといえる。
その司法が、愛をもってして人を裁いた瞬間に、私たちは立ち会った――。
それは、この国自体に、愛が根付いているという証明ともなるだろう。
これからも、きっと行政は変わり、きっと、今よりも更に多くの弱者たちを助ける事だろう。
人とは本当に弱きものであり。
人とは、本当に儚きものであり……。
人とは、本当に、美しきものである――。
「強がってごめんなさぁい……、ん、…ハァ、……本当に、ごめんなさい」
「ふんばってたんだよね。1人、知らないフィールドに立ってさ……。バランス取ってたんだよね、自分なりにさ……」
「うん゛……、誇りとか、持たなきゃって、私、必死で……」
「わかってる」
「こんな事になるなんて……。う、うぅ………」
「今日ここで知った事……」
「………」
「今まで、東京木乃原記念病院で起こった事……。全部、忘れちゃダメ……。私たちの記憶の中に、それはしまっとくんだよ……。全部、いらない悲しみなんて無いんだよ。史緒里のプライドだって、その奮闘だって、やってみなきゃわからなかった事だろうし、精一杯で考えて、出した答えでしょ」
「嫌な奴だって、思ったよね……、先輩に見放されないようにって、がんばったんだけどなぁ……。なんか、違ったかな……」
「私たち医療関係者は、特に間違いを犯せない……。その時々の判断が、命を繋ぐタスキになるの」
「ん、ハァ……、私には、んもう、な~んにも無いや……。ポケットの中は、カラ」
「あるじゃない」
「?」
ふいに振り向いた久保史緒里に、山下美月は、強く優しい表情で、微笑んでいた。
「ポケットいっぱいの涙が……」
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ