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ポケットいっぱいの涙

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 私の祖父が認知症を患った時、私は小学三年生で、祖父が認知症になったという事は、それは同時に、私の帰宅後に「おかえり」の一言を言ってくれる人がいなくなってしまったという事と同義だった。
 生まれた時からすぐそばにいた祖父は、優しくて優しくて、私は祖父の事が大好きだった。祖父の太くごつごつとした手が大好きだった。しわくちゃの、笑うと垂れ下がる瞼が大好きだった。
 祖父をデイケアで介助してくれた東京木乃原記念病院は、とても献身的に、祖父がひきとるその時まで、何を嫌がる事もなく、誰かがいないと何もできない祖父を温かく介助してくれた。
 自然と、私の未来は決まっていた。
 私は将来、看護師になろうと――。
 そして東京木乃原記念病院で働いて、デイケアの職務に就こうと。
 私の目指した当時の東京木乃原記念病院の看護師さんたちは、とても有能で、今も眩しい、雲の上の存在だ。
 今も尚、眩しいその場所を目指すのならば、まっすぐに、思い迷わずに、ただひたすら、まっすぐに――。
 デイケアを離れていった愛宕さん一家を、見捨てない事だ――。
 車をところどころへと走らせた結果、気がつくと時計の針が深夜の二時を指していた。
 小径に路駐をして。山下美月は、愛宕壱の住まうアパート前で、その脚を止めた。
 数分間見上げた電気メーターは、微動だにせずに、玄関前には、今も車椅子が無いままであった。
 激しい眠気に、今日のこの日が多忙であった事を思い出す。
 茶色の革製の手袋を外して、山下美月は迷う事無く、電話をかけていた。
 数秒間、待つ間に、眠ってしまいそうになる。
 その声は、答えた。

「もしもし。今何時だと思ってるんですか?」
「久保先生……。お願い、力を貸して……。愛宕さんが、ご自宅に帰ってないの……」
 「愛宕さん? 愛宕さんなら、デイケア、やめたじゃないですか……」
「ううん、今も私の患者さんだよ」
 「ウソ? ほんとですか?」
「本当だよ。ねえ、お願い、手分けして探したいの……。もしかしたら、愛宕さんがまた徘徊してて、息子さんが愛宕さんを、探し回ってるのかもしれなくて……」
 「な、ん、じ、だと思ってます? そこ、時計あります?」
「史緒里にしか、頼めないの……」
 「また…、その呼び方する……。私お医者さんですよ? あなたセラピストでしょう? 私の診断に従って、あなたの診察があるわけですよねえ?」
「久保先生、お願い……。お願いします……」
 「とにかく、警察に連絡しますね」
「ダメなの。息子さんが、警察にお世話になった時の事をトラウマにしてて……、そのせいで仕事を休職したり、辞めたり、完全看護体制になった事もあって。とにかく、警察には連絡しないであげて……」
 「そうですか……。わかりました」
「じゃあ、足立区を重点的に、探して」
 「いや、私は、まだそっちに行くとはひとっ言もいってませんよ」
「久保先生は、来るよ……」
 「はあ? 行きませんよ、さすがに」
「もう、六年の付き合いだもん……。久保先生の事は、私が誰より一番よく知ってる。たぶん、久保先生、自分自身よりも……」
 「公認心理士だからって、見え透いた事言わないで下さい。じゃあ、あまりがんばらない方がいいですよ。そう忠告しておきます。……寝ますよ、おやすみなさい」
「こんな時間に……、ごめんね。……今度、セブンティーンで、なんかおごらせて」
 「………」

 電話を切った後、山下美月は、猛烈な眠気に脚元をふらつかせながら、ようやくで車へと乗車した。
 車へと乗り込んだ後は、嘘のような眠気に、すぐに眼を閉じてしまう……。
 山下美月は、そのまま、深い眠りへと誘(いざな)われていった――。

 2月1日の早朝を迎え、冬の日差しが白くフロントガラスを反射させている。
 握りしめたままのスマートフォンが鳴り響く。そのけたたましい着信音に、ふと山下美月は眼を覚ました。
 すかさずに、スマートフォンを耳にはり付けた。
「もしもし……」
 「早く来てぇ! なんですぐ来ないのラインに場所送ったでしょう!」
「ん、なに……、久保先生?」
 「もう、嫌よ、こんなの……。いいから、早く来てよぉ‼」

 ぷつりと切れた通話に、眼をしかめて、スマートフォンの画面を短く一瞥した後、ラインを開いて、久保史緒里からのメッセージを見た。
 山下美月はシートベルトをきつくしめて、アクセルを踏んだ。
 URLに添えられていた場所の詳細はそう遠くはない、荒川の土手の下、木々の生えた草地の広場であった。
 車を路駐させて、ラインにあった詳細の場所まで息を弾ませて、全速力で走った。中学校の部活以来の肺活量を使った。汗が噴き出し、涎(よだれ)も自然とでた。
 久保史緒里の、己を呼ぶ声が近くから聞こえた。
 山下美月を呼ぶその声は、徐々に明確に、鮮明に、近くなる……。
 土手から草木の生え茂る草地を覗き込むようにして、土手を転がり落ちた。
 久保史緒里の声が聞こえる……。
 土手から転がり落ちて、右のひじを痛めたらしい。
 鈍い痛みが右ひじに走る。
 即座には、立ち上がれなかった。
 久保史緒里の指差すその先に。
 もう、その光景が見えていたから。
 それでも、歯を食いしばるようにして。
 山下美月は立ち上がった。
 泥にまみれた手の平を、衣服を、そのままに……。
 まずは久保史緒里へと歩み寄り、
 その背を強く優しくなでた。
 久保史緒里は、もう声を出さなかった。
 そちらの方向も、見ようとしていない。
 山下美月は、そのちらの方向を、
 まっすぐに見つめた――。
 車椅子があった。
 1日中、歩き回ったのだろうか。
 車輪には乾(かわ)いた泥や埃(ほこり)が付着している。
 車椅子のすぐ近くに。
 愛宕誠の姿があった。
 彼は仰向(あおむ)けになったまま、眼を閉じている。
 首筋から、出血している。
血は、もう乾いている様子だった。
 じっと見つめると、愛宕誠が、ゆっくりと、呼吸しているのがわかる。
 気を失っているのだろう。
 その首には、緩(ゆる)んだ縄(なわ)がほどけて巻かれていて。
 血の付着した包丁が、愛宕誠の横たわる地面のすぐ近くに、投げ捨てられていた。
 愛宕誠のすぐ近くには、車椅子がある。
 山下美月は、ゆっくりと、大きく、息を吸い込んだ……。
 そして、ゆっくりと、その息を吐き出していく……。
 車椅子には、愛宕壱の姿があった。
 上を向いたまま眼を閉じたその綺麗な顔は、夢を見ているかのように、ぐっすりと眠っているかように、ただただひっそりと、静かに、呼吸を止めていた。

       8

 東京地裁は2023年7月――。愛宕誠の愛宕壱・介護殺人事件の裁判を開廷した。
 愛宕誠は、両親と三人暮らしであったが、2012年に父が他界し、その頃から母の認知症が発症し始めたという。
 頼りもいない為に、母の介護は愛宕誠が一人でした。
 それまでの9年間、仕事と介助を両立して、母への献身的な介護を続けたが、愛宕誠はその時間、苦痛ではなく、幸せであったという。
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ