ポケットいっぱいの涙
二年か三年ほど前に一度、久保史緒里に連れられて行った事がある。確か、その時は久保史緒里が理学療法士の資格を取得した事による、二人だけの祝賀会であった。北千住の西口駅からは少し離れていて、東京木乃原記念病院から行くのであれば、タクシーが最適だと思える。
三月も中盤であるが、今日は二月を思わせる寒波だった。その寒さの中でも、東京木乃原記念病院の院内は適度に暖房が利いていた。病室の窓や通路に在るガラス製の大窓などが多いこの東京木乃原記念病院は、常に窓という窓にはロックがかかっている。しかし、病室の窓以外にはカーテンがしかれていない為、通路を剥きだした大窓の窓際が一番冷え込む。院内の暖房はそこが少し寒いぐらいの設定に調節されていた。
白いロングコートを羽織り、院内を一階の正面玄関へと歩いていくと、夜勤の看護師たちから幾度もの「お疲れ様です」が囁かれた。
今日もちゃんと疲れた――。私は今日のこの日も、しっかりと自分の業務と向き合い、真摯に患者さんたちと向き合い、大切な1人1人の心をケアできた。
毎日の事である、小さな満足感を覚えながら、山下美月はスマートフォンのアプリで呼び出していたタクシーに颯爽と乗り込んだ。
PM19時32分をちょうど過ぎた頃、山下美月はタクシーの精算をして、懐かしいBAR〈セブンティーン〉へと入店した。
「あ、先輩、こっちこっち~。おっそ~いん」
久保史緒里は、もう少し頬が赤みがかっていた。その人懐っこさは1ミリも変わらないが、いつもよりも笑みが大きく、多少大胆になっている様子であった。
「ごめん、急いだんだけど」
山下美月はロングコートを脱いで、椅子の背にかけた。
「ねえねえ先輩、これ、飲んで」
「んぅ?」
山下美月が指差されたメニュー表を見つめると、そこには極大メガギガテラ・ハイボールと記された写真のないドリンク表記があった。
「私これ、二杯飲みました……」
「ウソでしょう? マジで?」
「それだけの日です、今日って日は」
久保史緒里はしみじみとほくそ笑んだ。
「なに、なんかいい事あったってーのは、すぐわかるけどさぁ……。なんなの」
山下美月は久保史緒里をじっと見つめたまま、ウェットティッシュで手をぬぐい、声を挙げて近くを通り縋った店員を呼んだ。
30分が過ぎた頃、イカ墨パスタと半熟卵のチーズ・カルボナーラが運ばれてきた。
山下美月はハイボールを二杯、久保史緒里に至(いた)っては、ハイペースでハイボールをおかわりしていた。
久保史緒里は、さっそくイカ墨パスタを食べ始める。
「あ先輩、取り皿もらって、ちょっと味見しあいっこします?」
山下美月は微笑んだ。
「実は美味しそうって思ってた。んふ、史緒里、歯黒すぎ……、んっふふ。すいませ~ん、店員さ~~ん」
小皿を二枚貰い、お互いの注文したパスタを分け合った。
久保史緒里は前歯を真っ黒に染めながら、嬉しそうに微笑む。
「先輩先輩……、今日、何にち?」
「え?」山下美月は一瞬だけ、考えた。「水曜日? だよねえ」
「違います、3月16日です……」久保史緒里は嬉しそうに言った。「はい、何の日ですか?」
「え~3月16日か~もう……、えー何の日ぃ?」
山下美月は思考しながら、カルボナーラを食べる。久保史緒里は、笑顔をフリーズさせたままで、山下美月を見つめていた。
「あ、……ホワイト・デイ、だっけ?」山下美月は、そう言ってグラスの水を飲んだ。「バレンタインのお返しってなんていうの? 3月だったよねえ?」
「違いますよ先輩、んもうそんな、男運の無さそうな言い方やめて下さい、はずかしいから」久保史緒里はころころと笑った。
「だってないもん、実際」山下美月も笑う。
「ホワイト・デーは3月14日!」久保史緒里は優しく微笑んだ。「3月16日、今日はぁ……。医師試験、国家試験の合格発表の日です」
「国家試験……」山下美月は、眼を見開いて、カルボナーラを食べる。「しおひゃん、なんあ、受けらの?」
「はい!」久保史緒里は、はっきりとした笑みで頷いた。「私、医師免許、受けました……。そして、医師免許……、受かりました、あっはあ~……。今日から、お医者さんです、う私ぃ!」
山下美月は、驚愕(きょうがく)して、言葉を急ぐようにして、急いで口内のパスタを飲み込んだ。
「ううっそお‼」
「ほんとです! ぃやったあ‼」
小さくバンザイする久保史緒里に、山下美月は、呆気にとられたまま、久保史緒里の無垢な笑顔から眼を逸らせぬままで、グラスの水を一口飲んだ。
「お~め~で~とぅ~! え、じゃ今日私がおごるよう」
「いいんですいいんです、美月先輩には五年も良くしてもらってますから」久保史緒里は手の平を向けてしぶく微笑んだ。「私の気持ち、今日ぐらい受け取って下さい……。先輩がいなかったら、今の私はいません。先輩が看護師から、公認心理士の資格とるのにがんばってる姿をすぐそばで見てきたから、今の私、こんにちの私があるんです」
「そんな、私は何もしてないよう……。史緒里のがんばりだよ?」
山下美月は、ハイボールのグラスを低く持ち上げて、嬉しそうに微笑んだ。
久保史緒里は、眼頭の涙を折り畳んだ指でぬぐっていた。
「そっか。じゃ今日はとことん呑もう!」
「ありがとうございます……。先輩、私、がんばったよねえ?」
山下美月は大きな笑顔で「うん。がんばった」と頷いた。
久保史緒里は、手の平で両の瞼を隠して、黙り込むようにして泣き始めた。
山下美月は、そんな久保史緒里を優しく見つめながら、感慨深く呟く。
「そっかあ……。二歳、年下で…、二年後輩の史緒里が、今度はお医者さんかぁ………。ヤバ、それってヤバいね? 呑も呑も!」
久保史緒里は、手の腹で雑に涙をぬぐいながら、テーブルに視線を落として言う。
「私、精一杯、がんばりますね……。今月から、うちの病院とは新契約の話、もうしてあるんです……」
「へええ」
「近々、私、今の病院で医者になります……。心療内科の医師です……。責任がいっぱいだ……。先輩も、こんな重圧、せおってたんですね……」
「じゅう、あつ、か……」山下美月は、弱く笑みを浮かべた。「まあね」
「相応しい決意をもって…、恥ずかしくない医師になります……。しっかりとした意思をもって、ちゃんとした医師になります、私……」
「じゃあさ、ある意味、ハッピーバースデイだね、今日は」
山下美月は、久保史緒里と眼を合わせてから、更に優しく微笑んだ。
久保史緒里は、とろけそうな笑みを浮かべる。
「それは、明日からにして下さい……。生まれる前ぐらい、憧れの先輩に頼りたい……」
「おお、頼れ頼れえ」
「はい。大好きです、先輩……。かんぱい」
「かんぱ~い! おめでとう、史緒里。頼ってくれて、ありがとね。私もがんばるわ」
「はい。お互い、がんばるだけです、これから先は。よし、食べましょう!」
「食べよ食べよ」
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作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ