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ポケットいっぱいの涙

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 久保史緒里が心療内科の新しい医師に就任してから、一週間もしないで、その噂は広がっていた。私はまだ、あの〈セブンティーン〉での乾杯以後、直接史緒里本人とは会えていない。史緒里がリハビリテーションの専門であった時には、職務的にも顔を合わせる機会が多かったのだけれど。
 二十代半ばの女性看護師と、三十代半ばの女性看護師は、リハビリ施設の通路で立ち話をしている。
「ここの病院って、おかしいんじゃない? なに、医者って神様なわけ?」
「久保さんなんか、医師免許取ってからす~ぐ、ああなったよね……。そういう習わしでもあるんじゃないの、ここの病院。そういう契約とか、あっても変じゃないよ、ここ。だってここの人みんなそうじゃん」
 山下美月は、気になる数名の患者の様子を窺(うかが)いに、そのリハビリ施設の通路を通りかかった。
 山下美月に気がついた二人の看護師は、軽く挨拶をする。
 山下美月は、笑顔で会釈(えしゃく)をした。
「先生は、変わらないでいてくれますよね」
「ん?」
 山下美月は、脚を止める。白衣のポケットに両手を入れたまま、そう言った三十代半ばの看護師の顔をふいに見つめた。
「いや、山下先生は、優しい方のままだな~って、話です」
「山下先生はやめてよ」山下美月は苦笑した。「もう私も知れた顔なんだから、せめて美月ちゃんとかさ、美月先生、でもいいや」
「先生は、このまま変わらないで下さい」
 二十代半ばの看護師がはにかんで言った。
 山下美月は、その表情を昆虫を観察する子供のように無にした。
「何の事?」
「久保先生ですよ……」
「ねえ? 久保先生のあの態度って、なっかなか無いと思いますけどね。あれで心療内科って、言われても、あれで何を治すの? て感じよね」
「史緒里……」山下美月は、咄嗟に言葉を選ぶ。「久保先生が、どうかした?」
「いえ、どうかしたって、言うかぁ~……」
「先生、まだ久保先生とお話してないんですか? あのう、久保先生が、医師になられてから……」
「うんうん、会ってないんだよね~」
 山下美月は、訝(いぶか)しげに、顔の表情をしかめている二人の看護師を見つめた。
「ほんと、どうした?」
「噂とか聞きません?」
「噂っていうか、そのまんまですけどね」
 山下美月は、うっすらとした記憶で、最近耳にした真新しい久保史緒里の噂を思い出していた。それは悪評である。
「久保先生が、どした?」
「怖いんですよ~」
「リハビリテーションやってた頃の久保先生じゃないんです」
「どゆ事?」山下美月は、眉(まゆ)を顰(ひそ)める。「前の久保先生じゃないって、専門科が変わったんだから、それって当たり前じゃなくて? え、どう違うんです?」
 二十代半ばの看護師は顔をしかめた。
「態度が違います……。お給料が変わったからって…、あれは、ないんじゃないかなあ、て思いますけどね……」
 山下美月は、もう一人の三十代半ばの看護師を見る。
「感じ悪いですよ~、久保先生……。もう、別人格……。もう一人のペルソナですよ、あれは」
「ペルソナ?」山下美月は、気分と表情を一新させる。「そんなに、変わっちゃったの? 久保先生……。例えば、感じとか、態度悪いって、どういった感じで?」
「会えばわかりますよ、先生も」
「ヤバいヤバい、来た来た、久保先生の腰ぎんちゃく……。山下先生、私たち、行きますね」
「あ、あうん」
 山下美月は、振り返らずにリハビリ施設へと向かった二人をしばらく見つめてから、通路の販売機でホットコーヒーを購入しようとする。
「先生」
「あ、はい?」
 山下美月が振り返ると、メガネが印象的なピンクの白衣を着た看護師が、山下美月の真横に礼儀正しく立っていた。
 ピンクの白衣は、ここ東京木乃原記念病院では心療内科の看護師の白衣であった。
「山下先生、久保先生がお呼びです。先生は心療内科の診察室でお待ちです」
「あ、お、は~い」山下美月は、それからにこっと笑って、販売機を指差した。「いっつも久保先生が私にコーヒー買ってきてくれてたんですよ、んふ。今日は私がコーヒー差し入れちゃおうかな?」
「先生がお待ちですので、お急ぎになって下さい。午後の診察までまだお時間はありますが、久保先生はまだ昼食をとられていない様子でしたので」
「あ、は~い……」
 山下美月は、五階の心療内科へと赴(おもむ)き、今は患者のいない待合室を横切って、診察室のドアをノックした。
 すぐにピンク色の白衣を着た女性看護師が短い会釈しながら、扉を開けた。
 山下美月は、大きな瞳を覘かせるようにして、室内の様子と同時に、デスクについている久保史緒里を一瞥した。
「おっす、史緒里……」
「入って下さい」
 看護師が、ゆっくりと静かな音で扉を閉めた。
 山下美月は、静けさのまとわりつく診察室の、患者用の椅子に、ちょこん、と着席した。
「なあに?」
「まず……」
 久保史緒里は、その鋭い視線を、弱く笑みを浮かべている山下美月へと向けた。
「私はドクターなので、名前の呼び捨ては勘弁して下さい。先生、を語尾につけるのをお忘れなく、山下先生」
「……はい」山下美月は、その眼をまん丸くして、唾(つば)を呑み込んだ。「それで、ご用件は? 久保先生……」
「愛宕(あたぎ)さんの事です」
「ああ、愛宕さん……」
「報告書も、カルテも読ませて頂きましたが……、あなたは、本当に有資格者ですか?」
「どういう、意味ですか?」
 山下美月は、眼を見開いて質問した。敬語に、畏(かしこ)まった己の言葉遣いにはひどい違和感があった。
「愛宕さんにおけるしかるべき検査の後、カルテには『評価不能』とあります」
「はい……。私が、書きました」
「この結果で、要介護2という評価は、軽薄ではありませんか? 私ならば、要介護3から4を推薦します」
「でも……、愛宕さんは、まだ意思の疎通(そつう)ができるから」
「愛宕さんは院内ではあなたとしか意思の疎通(そつう)はできません」久保史緒里は貫くような冷たい視線で山下美月を見つめた。「山下先生とも、完全に意思の疎通ができているとは言い切れませんが……」
「自分の脚で、歩く事もできてるし……」
「意思の無い徘徊(はいかい)を自分の脚で歩けると評価していいんですか?」
「………」
 山下美月は、視線を逸(そ)らした。愛宕壱の病状も確かに内心に響き渡っているが、それ以上に、親の敵に噛み付くかのような久保史緒里の対応に驚愕(きょうがく)を隠しきれなかった。
 久保史緒里は、疲れた眼を癒(いや)すかのようにもみほぐしてから、メガネケースから細身のメガネを取り出して、耳に装着した。
 山下美月は、眉間(みけん)に力を込めたまま、久保史緒里を見つめる。
「愛宕さんのおうちは、経済的にも厳しいそうで……、息子さんが今、お一人で愛宕さんの面倒を見てくれてるんだけど……、デイケアにお母さんを通わせるのでもやっとの事みたいで、要介護がこれ以上、上がると」
「患者の資金の心配まで、医者の務めなんですか?」
 久保史緒里は、冷たくそう言い放って、鼻から深い溜息を漏らした。
 山下美月は、ほんの数日で別人へと変わり果てた久保史緒里を強く見つめたまま、言葉を探していた。
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ