ポケットいっぱいの涙
「患者さんの親族との面談、そのメンタルケアまで許されてるのは、山下先生の持つ資格だけです。今後も愛宕さんの親族の方には相談にのってあげて下さい。でも、愛宕さんの基本的な主治医は、今後、私が勤めますので」
「そぉんな!」
山下美月は、険しい表情で、久保史緒里を見つめた。
久保史緒里は、強い意思を表した表情で、山下美月を見つめ返した。
「あなたが受け持った結果、愛宕さんの病状は悪化の一途を辿ってます!」
「なに、私が全部悪いっていうの? そぉんな、私だって愛宕さんの事しっかり診てる! 認知症の患者さんだよう? そんな一朝一夕(いっちょういっせき)みたいに簡単にはいかないよう!」
「医学は進歩してるの、公認心理士なんていうから、新しい知識でも武器にしてるのかと思えば、とんだ思い違いですね。あなたと私の見つめる1年先は、おそらく結果が違うわ……」
「ねえどおしたの史緒里ぃ、」
「その呼び方やめてって言ってるでしょう!」
診察室に響いたその大声は、近くにいる看護師たちにも沈黙を要求した。
山下美月は、その瞳を振動させながら、たった今視線を外した久保史緒里の事を見つめ続ける。
「私は、医師……。あなたは、公認心理士よ。医師じゃあない……。勘違い、しないで」
「………」
「以上です。出て行って」
「………」
「もう話は済みました」
「私、まだなんにも……。久保先生、コーヒーでも飲みながら…、お昼でも食べながら」
「そんな時間はありません。昼食はカロリーメイトで済ませましたし、あなたには反省する時間が必要なはず」
「反省って……、それ本当に言ってる?」
山下美月は、立ち上がった久保史緒里を険しく見つめた。
「本気かどうか、その判断は山下先生にお任せします。五年もご一緒したのだから、私をよくご存じでしょうから……」
そう言い残して、言葉を失った山下美月の隣を横切って、久保史緒里は診察室から退出していった。
山下美月は、しばらく呆然とその椅子に着席したままで、何やら思考を傾けていたのだが、若い看護師が「先生、診察室の、消毒を…」と声をかけられると、忽(たちま)ち顕在的な笑みをその表情に浮かべ、「ごめん。消毒お願いします」と、その診察室から立ち去った。
4
愛宕壱(あたぎいち)さんが週2から、週5回のデイケアになってから五カ月。悪化していくその認知症の症状について話したいと、愛宕壱さんの息子である愛宕誠さんに、何度も何度も連絡をした結果、この2022年の7月に、ようやく本人と会える事になった。
愛宕壱さんが東京木乃原記念病院で介助を受けている間、ほんの少しの時間だけ、愛宕誠さんと愛宕壱さんの住まう自宅アパートに入れてもらえる事になったのだ。
工場での汚れが顔や指先についたまま、俯いている愛宕誠に、山下美月は、弱い笑みを浮かべて、優しい口調で話しかける。
「愛宕さん…、誠さんは、お身体の調子は、どうですか?」
「……。身体、壊しても、仕事っていうのは、休めなかったんで……。ご心配、感謝します。お金が必要な時ほど、世間は私を必要としなかった……。辛い生活が、続いてますが、母は、あいかわらず、そちらでは元気にしていますか?」
「壱さんの病状なんですけどね、全然悪くなっている、というわけではないんですよ」
「そうですか。でも、今もまだ、夜は、寝てくれないんです……」
「………」
「くたくたで、…仕事から帰った後、母の、ご飯を用意して……。美味しそうに食べてくれるんです……。私が、母のご飯を用意していると、母は、そわそわ、わくわくしてくれて……」
「そうですか」
山下美月は、息子の前では一層、人間性の強く出るという愛宕壱の情報に、大きく驚きつつも、優しい眼で笑った。
もっと早く、会うべきだった。
「でも、夜に眼が覚めるみたいで……。どっか行ってしまうんですよ……。家に帰る、いうて……。ここが家や、いうても、わからんみたいです……。デイケアにお願いしましたのも、その夜間の徘徊が原因です……。もう、私は、正直、ここ何年か、ほとんどまともに寝ていません……」
この人は心も身体も、すでにぼろぼろだと、山下美月は心の中で舌打ちをした。
なんで、どうして強引にでも、もっと早く気づいてあげられなかったのか。
己の公認心理士という資格が、無念の巨大な咆哮(ほうこう)を上げているかのような気がした。
山下美月は、優しい口調を心掛ける。
「お仕事は、今は、どうなされてるのですか? そんな状態でお仕事をされたら、体調的にも危険ですし……」
「ええ、今は、休職させてもらってます……」
「ああ、あは。よかった」
「でも良くなくて……。お金が、もう………。それでも、人のいい大家さんに助けられてるんですよ…、家賃も、基本料金の半額で、このアパートを借りさせてもらってるんです……。そんな大家さんに、家賃代、払い遅れるわけにはいかなくて……。だけど、もう仕事をしながらの母の介護は、不可能で……」
山下美月は、頷きを落としながら。黙って聞いている。
「警察にも、二回ご迷惑をおかけしました……。母の、深夜の徘徊で……。自宅介護を覚悟しました……。くたくただけど、でも……。母といると、幸せなんです……。大好きな母が、にこっと笑ってくれると…、私は、他には何もいらないんだなと、心から思えます」
山下美月は、瞼(まぶた)に浮かんできた涙を、悟られぬように、さっと指先ではらった。
「今は、実際に、金銭面は、どうなさっているのでしょうか。お力になりたいんです、ので、教えて頂けませんか?」
「失業給付金でしのいでいます……」
「そうですか……。少し、安心しました。でも、それはまたいずれとまりますよね……。他に、収入源は」
「カードローンが、まだ限界額ではないので、いくらか、引き出す事はできる思います……。あとは、母の年金が、月に2万5千円……。それが、頼りになります。親族にも、これ以上迷惑をかけるわけにはいきませんから、私と母の財源は、もうありません。昔から、父には、厳しく言われて育ちましたから。貧乏であっても、他人に迷惑をかける生き方をしてはいけない。人から後ろ指差される事をしてはいけない、と」
「失礼ですけど、お父様は、今は」
「亡くなりました。今思えば、それが母の認知症のきっかけだったと思います。今は、母と精一杯、生きています」
愛宕誠は、暗く項垂れるようにしていた首をもたげ、誠実な表情を山下美月に、初めて見せた。
山下美月は、これほどまでに己の使命を強く感じた事はなかった。
人知れず握った拳に力を込めて、山下美月は愛宕誠に言う。
「生活保護に申請して下さい。生活保護は、恥ずかしいことでは無くて」
「二回、断られました……」
「え?」
「はい……。仕事をしながらの母の介護は、とても無理だと何度も相談したのですが…、50ならば、まだ働けるでしょう、と。その一点張りでした……」
「どうなってるの、そんな……」
山下美月は、驚愕しつつも――、思考をフル回転させる。
「この状況下にある家族の方は、生活保護を受けられるはずです、もう一度」
「行ったんです……。今は、失業給付金を理由に、断られました……」
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ