ポケットいっぱいの涙
「そんな……、そう、ですか……」
そうとしか言えない己の無力さを、強く強く憎んだ――。
「母のデイケア……、週5も、も、つらい、かなあ………」
山下美月は、頬(ほお)のこけた愛宕誠をよく見つめて、確かめるように言う。
「誠さん、いま、食事は、ちゃんととれていますか?」
「……母には。日に、二回、ちゃんと食事を与えています。毎日が、パンとジュース、なんですが」
「あなたは?」
山下美月は、ふっと苦笑した愛宕誠を、強く見つめる。
「二日に、一食……。パンとジュースを、食べて、ちゃんと生きていますよ」
山下美月の心の世界で、感じた事のない残酷な衝撃が走り抜けた――。
足りなすぎる資金の中から、母親をデイケアに通わせるために、食事を、二日にいっぺんにして……――。
この人の愛を、無にしてはいけない。
強い何かが、山下美月の精神世界を支配する……。
それは涙にはならず――。強き決意として、山下美月の心に赤い水滴を落としていった……。
「もう一度、生活保護に申請しましょう、私もついていきます」
「はい、ありがとうございます。でもダメだと思います……。思いの丈(たけ)は、もう全部吐露(ぜんぶとろ)しましたから……。私が、働きながら、母を介護できれば、なんとか済む話なのでしょう……。私は、正直に、何度も死にたいと、母に伝えました」
「………」
「ですが、母は生きたいという……。しかし、そんな母の言葉で、ここまでふんばってこれたんだと思います」
「………」
「お忙しいところ、わざわざ、ありがとうございました。母を、引き続き、よろしくお願いいたします……」
「誠さん……」
「私、もう疲れているので、寝させて下さい……。夜に、母は起きてしまうと思いますので……」
「……わかりました」
「すみません、ありがとう」
「また来ます。生活保護の件、考えておいて下さいませんか?」
「……ええ、わかりました」
かすれた声でそう言った愛宕誠は、もう微笑んではいなかった。
5
十月を迎えた頃、愛宕誠(あたぎまこと)さんとは全く連絡が取れなくなっていた。ただ、変化がみられたのは、愛宕壱さんのデイケアが、週5から週2へと変わっていたという、それだけの変化であった。
四十代の女性看護師は卑屈な表情を浮かべる。
「久保先生、他の科のドクターともケンカしてるみたいですよ」
山下美月は、白衣のポケットに片手を入れたまま、もう片方の手でホットコーヒーを飲んでいた。
「ほんとに~、久保先生なんなんだろうね~、何のためにあんなつんつんしてんだろう」
山下美月はコーヒーカップから火傷しそうだった唇を離して、眼で情緒ある表情作った。
「あっちい。たぶん……、前に前にって、必死なんだと思う。必死に背伸びして、あの子もがんばってるんだよ」
二十代の女性看護師は眼をしらけさせて言う。
「こんなん言ったらきりがないけど、嫌いです……。あの、顔は美人さんすぎてお人形さんみたいで好みなんですけど」
「じゃあまるごと、いい印象(いんしょう)のまんま、見てあげて。よく見れば、久保先生の良いところも絶対あると思うから」
山下美月は微笑んだ。
「あ~、腕は確かにいいって聞きますよね」
「薬を、最初からあまり大量に出さないとか……。逆に、不安で求める患者さんには否定的じゃなく、お薬出してあげてるとか、なんか、患者さんには親身になって、カウンセリングみたいな事までやってるそうですね」
山下美月はくすっと笑った。
「ほらあ、いいとこあった~。ねえ? 医者に悪い人なんて、いないんだから」
「確かに」
「ああ、なるほど、ですね」
山下美月は、デイケア棟から外来棟の五階にある心療内科まで、決意を露わにした表情で歩いた。外来の終わったこの時間なら、彼女はおそらくまだ診察室にいるだろう。
エレベーターで五階に到着すると、山下美月は待合室を横切って、すぐに心療内科の診察室のドアをノックした。
誰も、何も答えなかったが、すぐにピンク色の白衣を着た看護師が、「中に先生いらっしゃいます」と顔を出して告げた。
山下美月は、扉を開けて、ゆっくりとした動作で、扉を閉めた。
「なんですか?」
久しぶりに見る、冷たい視線が山下美月を突き刺した。
久保史緒里は、脚を組んで、メガネを耳から外した。
山下美月は、患者用の椅子に着席した。
「愛宕さんの事なんだけど」
「はい、それが? 愛宕さんがどうかしましたか?」
山下美月は、思い切った表情と勢いに乗った声で言う。
「愛宕さんの要介護、2にできないかな?」
「……、言ってる意味が、さっぱり」久保史緒里は、メガネを耳に装着して、鋭い視線を山下美月に突き刺す。「要介護度を下げる、という事ですか?」
「はい」
山下美月は、強い視線で頷いた。
久保史緒里は、視線を山下美月に釘づけたまま、数秒間黙ってから、質問する。
「それは、なぜ?」
「愛宕さん、もう限界だと思うの……。金銭的にも、体力的にも精神的にも。とくに金銭面が、もう逼迫してるんだよ、要介護度が高いと、使える介護保険サービスも多いけど、基本料金も大きくふくれるのは知ってるでしょう?」
「何を……。山下先生、愛宕さんは要介護度3よ。要介護3の手厚い介助を受ける必要があるのよ? 何を考えてるの、あなた、ちょっとおかしいんじゃなくて?」
「私はバカだよ。でもバカはバカなりに、人の事を本気で考えてるんだよ」
山下美月は清純な強い瞳で訴えた。
久保史緒里は、デスクに肘をついて、無意識にボールペンを目線の高さに持ち上げる。その眼は山下美月の必死な表情を見つめている。
「聞きましょう……。十分以内に、説明して下さい。私も忙しい身の上なので」
「わかりました。でも十分もいらない。ようは、愛宕さんの要介護度をもっと下げてほしいだけ」
「だから、それをどうしてか説明しろと言ったつもりだけど」久保史緒里は鋭く山下美月を睨んだ。「意味もなくそんな事をするば、まず問題になりますよ? 大問題じゃないかしら、そんな不正な操作なんて。偽装じゃない」
「違います……。医学や法に、もしも心があるんなら、私の訴えは理解できるはず。そして、医学にも法にも、心はあるでしょう?」
「心の専門家を眼の前にして、メンタルの専門家が不正を呼びかけるわけ?」
「ちが」
「それって心なんじゃなくて、都合なんじゃないの? お金がないからって不正な診断を下してたら、それはもう医者でもなんでもない。世に蔓延(はびこ)る犯罪だって同じような理屈から始まってるんじゃないんですか? 山下先生は、今私にそういう事をそそのかしてるんですよ?」
山下美月は、眼を閉じて、首を振る。
「違うの……」
「愛宕さんの要介護度は、私がちゃんと判断して、下した診断結果です」久保史緒里は、ボールペンをとん、とデスクに突いた。「要介護3のケアがあの患者さんには必要なのに、そんな事ももうわからないの? 愛宕さんの身内とはお話できてるんですか? お金がないって、制度ってけっこうあるわよ」
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ