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ポケットいっぱいの涙

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 平屋アパートの二号室に住まう愛宕さんの自宅前には、黒いロングコートを羽織ったまま、扉の上の電気メーターを見つめている、久保史緒里がいた。
「久保先生……。どうしたんですか、先生」
「あら……。山下先生こそ、今日はイブですよ? いいんですか、こんな色気の無いところにいて」
 山下美月は、浮かび上がってきた笑みを極力噛(きょくりょくか)み殺しながら、久保史緒里を一瞥してから、電気メーターを指差した。
「ほら………、少しずつ、動いてるでしょう?」
「ほんとだ」
「いるにはいるんだと思うの、中にはね」
 久保史緒里は、黒いロングコートの一番上までボタンを閉めて、山下美月を一瞥する。
「送迎の時にも、息子さんはちゃんと顔を出すようですね。そう聞いてます」
 山下美月は、白いロングコートのポケットに手を突っ込んだ。
「ちゃんと住んでるんだよねぇ……、だから。居留守なわけよね」
「面会拒絶ですか?」
「うん……」山下美月は、素早く久保史緒里を一瞥した。「まいったよね」
「いつ頃から?」久保史緒里はメガネの位置を直しながら、山下美月を見つめたままで言う。「そもそも、何度会話できたんですか?」
「一回だけ……」
 そう言って久保史緒里を見つめた山下美月の口から、淡い白の靄が浮かんでは、すぐに透明に消えた。
 久保史緒里は、メガネの奥の眼を座視にして言う。
「マスク、つけないと違反ですよ」
「忘れちった」
 久保史緒里は、ごそごそと手提げバッグの中を手探り、くにゃくにゃにひん曲がったマスクを取り出した。
「………」
「………」
 無言でそれを山下美月に差し出している。
 山下美月は、柔(やわ)らかい表情で苦笑した。
「さすがに、それは嫌かな~」
「そう、ですよね……」
「なんか匂いしそう」
「失礼な……」
 久保史緒里はににゃくにゃのマスクを手提げバッグの中に捨てた。
 山下美月は、玄関のドアを叩いて、声を出してみる。
「愛宕さぁ~ん」
 返事は返ってこなかった。
 久保史緒里は溜息をついた。山下美月は、久保史緒里を一瞥する。
「久保先生は、なんでここに?」
「私、アンケートを見て、ここに」
「愛宕さんの、息子さんの書いた?」
「はい」
「あ、それ……。私のとこに届いてない理由って。そっか、久保先生が持ってたのか……」
「私が秘匿してる、みたいな言い方でいうのやめてもらえます?」
「なんて書いてあった?」
 山下美月は表情を真剣なものへと一新させて、久保史緒里を見つめた。
 久保史緒里も、その表情に感化されて、いっそう生真面目な顔つきをした。
「どうやら限界が近いみたいですね……。なんの限界か、よくはわかりませんけど、たぶん体力気力の限界でしょう。介護者にはよくあるケースです」
「………」
「一度お話をしておきたくて、あの、愛宕さんの認知症の症状進行のペースについてです」
「十一月のアンケートによれば、愛宕さん…、息子さんの事はわかるみたいで……。ううん、もちろん認知症の症状として、息子さんの事も誰かわからなくなる事はよくあるみたいなんだけど、でも……。基本的には、息子さんだけは、憶えてるみたいなの……」
「なんでも、あなたにではなく、間違えてうちの病院のケースワーカーに相談してたみたいでしたね。うちのケースワーカーは資格もない一般人がやってる仕事で、基本、入院患者の愚痴を聞く役目ですから、愛宕さんの折り入った相談には、不向きだったみたいですね」
「そんな事、知らなかった……。名刺(めいし)を渡しておけば……」
 山下美月は、悔しそうに小さな舌打ちをした。
 久保史緒里は横目でそんな山下美月を一瞥している。
「ケースワーカーに尋ねたところ、よくは憶えてらっしゃらない様子だったんですけど、やっぱり限界限界、限界が近いと、そういう方向での相談だったみたいです」
 山下美月は、白いロングコートのポケットから手を出して、玄関のドアを強めにノックした。
「愛宕さ~ん!」
「愛宕さ~ん、東京木乃原記念病院の者です~!」
 久保史緒里も、声を大にして呼んでみた。しかし、何度呼び出しても、その声は虚しく響くだけであった。愛宕家からは、何の応答も無い。
「しお、久保先生、何で来たの? 電車?」
「タクシーと、徒歩です……」
 久保史緒里はそう言ってから、きょとん、とした顔で山下美月を一瞥した。
「山下先生は?」
「車……」山下美月は、にこっと微笑んだ。「もう少し、ねばってみてから。ダメだったらもう、今日は帰ろ。送ってくよ」
「ありがとうございます」久保史緒里は冷静なままで、玄関を見つめる。「愛宕さ~ん! 東京木乃原記念病院の者です~! 少し話を聞いてもらえませんか~?」
「愛宕さぁ~ん、私です、山下です~!」
「愛宕さぁ~ん!」
「愛宕さ~ん」
 帰りの車の中、助手席の久保史緒里は、疲れていたのか、すぐに眠ってしまった。
 山下美月は、久しぶりに訪れた久保史緒里の自宅マンションの駐車場で、しばらく、己も眼を閉じて眠りについた。
 2022年の年末である今月末に、愛宕壱の息子である愛宕誠から、東京木乃原記念病院に、愛宕壱のデイケア通院を辞退しますとの報告があった。

       7

 新年の2023年を迎えた一月末日。山下美月は東京木乃原記念病院の勤務を終えた後、車内で夕食をと、セブンイレブンで購入した肉まんとホットコーヒーで食事を済ませたのちに、深夜になる前に、気になり続けていた愛宕壱(あたぎいち)の私宅へと赴(おもむ)いた。
 車を小径に路駐しておける時間は間もないほどだと、急いで愛宕壱の住まうアパート前まで走ると、今は関係者で無い事を思い出し、忍び足で愛宕壱の住まう二号室の玄関前まで歩いた。
「ん?」
 山下美月が、いつものように電気メーターを見つめると、いくら見つめ続けても、電気メーターは微動だにしなかった。
 山下美月は玄関前の変化に気がつく。玄関前に、いつも折り畳まれていた車椅子が無いのである。
 出掛けているのだろうか?
 こんな数十年ぶりだという寒風の吹きすさぶ夜更けに、認知症の母を連れて、一体どこへ行くというのだ。
 耳をひそめて、玄関の前から、室内の音を聞いてみる……。
 音はしない。
 そもそも、人間の立てる生活音すら、その気配がない。
 山下美月は急いで小径に路駐してある車へと引き返した。大急ぎで車のエンジンをかける――。
 幾つか思い当たる可能性として、引っ越した可能性があった……。
 デイケアをやめているし、ご近所とのトラブルか、もしくは、親戚の住まう地へと、住む土地を変えたのかもしれない。
 では、何を頼りに、私は何処へ向かえば、あの二人に会えるのだろうか……。
 このままではと、ずっと思い続けたままであった。
 責任とは、なんだろう――と、毎晩のように考えていた。
 出逢いとは――。別れとは――。
 運命とはいつの時も、複雑に交差していて、運命の糸は、知らず知らずのうちに誰かの運命の糸と交わっている。
 私が望み選んだ道に、愛宕さん一家は現れた。それはとてもとても弱々しいSOSで、それは、とてもとても強い、生きたいという意志だった。
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ