ここにしかないもの
「俺、好きな子と友達からっていう器用なやり方わからないから。だから……、付き合って下さい、俺と」
飛鳥は気がつくと、あの夏祭りの夜に、光葉慎弥に一目惚れした事を思い出していた。だから、正気の光葉慎弥と一度会ってみる気になった事を。
飛鳥はころころと笑いながら、「うん……」と、1つだけ頷(うなず)いた。
やがて、湯気を立てるエスカルゴが運ばれてきて、同時に届けられたカクテルはその一口で格別である事がすぐに理解できた。満腹の中、少しだけつまんだエスカルゴも、絶品であった。
今は、その味だけを思い出せないでいる。その日の事は、鮮明に憶えているのだけれど、どうしても、残して帰ったそのカクテルと、エスカルゴの味だけを覚えていなかった。
どれも、慎弥と付き合った最初の思い出であり、忘れたくない大好きな時間なのに……。
思い出は作り続けていかないと、風化していく思い出も、出てくるのだ。
飛鳥は暗闇に強く眼を閉じて、掛布団を深くかぶった……。
6
心情的に深刻であった春が去り、やがて夏の兆(きざ)しが訪れた頃、重ねた努力も虚しく、飛鳥のファッション・デザイナーへの夢は遠ざかっていた。
光葉慎弥とも、三月から五月までのまる三か月間は、月に一度しか会えていなかった。光葉慎弥からはラインが毎晩一件だけ届いていたが、飛鳥は既読をつけるだけであった。
六月を迎えた今週から、私と慎弥は通常通り、週末の二日間、毎週二回、会えるように戻っていた。
けれど、春に深めた心の溝(みぞ)は、そう簡単には埋(う)まろうとはしてくれなかった。
この森林公園にも、久しぶりに訪れた。
いつもの通り、いつの時もそうしてきたように、私達は街灯近くの、森林を背にしたベンチに座っている。
あんなに楽しかった時間が嘘のように、夏の日差しに、この今も痛み続けている心を焼かれていた……。
「この前だけど、さくらちゃんに駄菓子、おみやげに持っていったろ…、そん時、いつものやつは? て言われちゃったよ……。いつものが、良かったんだな」
「………」
私は、ずっとつんとした態度であった。
慎弥は、苦笑してばかり。
愛しいはずなのに、私は何か、判然としない何かに、憎悪している。
いや、震えているのだ。
「白黒映画でさ、素晴らしき哉(かな)、人生、てあるんだけど……。アメリカじゃあ、毎年クリスマスにその白黒映画がやるんだってさ……。日本じゃ、ホームアローンだよな」
「……そうなんだ」
「ああ、毎年観てるって…、この前実家に電話した時、言ってたよ」
「ふうん」
「……」
「……」
「暑くなってきたなぁ……。今年は、プールでも行こうか?」
「行ってくれば?」
「っはは……」
「………」
どうしてか、冷たく当たってしまう。全てを理解した上で、慎弥に当たってしまうのは、行き所を無くした私の気持ちをぶつける場所が、慎弥しかいないからだった。
大好きだよ、慎弥……。
ずっと変わらないの。
それでも……。
別れたくはないのに、別れ話ばかりが、頭の中に浮かんでは消えていく……。私はもう、とうに、それに疲れきっていた。
別れ時なのかもしれない――。と、本気ではない自分が、軽口を叩く。
「腕、組んで歩いた事なかったな……」
「うん」
「誰か、他に好きな奴…、できちまったかな……」
「………」
「ごめんやっぱ、まだ今は聞きたくねえわ……」
「ふうん……」
「………」
「………」
「もうすぐ、付き合ってから二年目になるよ」
「うん」
「ごめんな、仕事、変えらんなくって。技術も何もない俺を、明日食うメシもない俺を拾って、就職させてもらった恩があるんだ……」
「知ってる」
「じゃなきゃ、あんなとこ辞めてる」
「……」
「春には飛鳥とも、なかなか会えなくなるし……」
「……」
「めんどくせえな、俺って。ごめんな」
「あやまってばっかり……」
「……そうだな」
光葉慎弥は、指先で頬(ほお)を掻(か)いて苦笑した。
飛鳥は前を向いたままで、視線を下ろして言う。
「笑ってばっかり……」
「飛鳥ちゃんの言う通り」
飛鳥は、険しい表情で、光葉慎弥を見つめる。
「慎弥はこれでいいの?」
光葉慎弥は、優しい顔で、飛鳥を見つめる。
飛鳥は、必死の表情を浮かべていた。
「慎弥は、楽しい? ねえ、今楽しい?」
光葉慎弥は、何も言わない。ただじっと、まっすぐに飛鳥の眼を見つめている。
「何がしたいのか、よくわかんない……」
光葉慎弥は、森林公園の景色を眺めた――。まだ少数ではあるが、自然の発するナチュラルな涼しさを求めて集まった人々が、所々に設置されているベンチにて、各々の過ごし方をしている。
飛鳥は、溜息をついた。
「もう、無理なんじゃないの…、私達……」
光葉慎弥は、その眼を細めただけで、何も言わなかった。
「もう、別れよ?」
「………」
飛鳥は、光葉慎弥を見つめた。心は、何も言っていない。とうに麻痺(まひ)してしまっている。痛みさえ、今はまだ感じずにいる。
「世界中で、1番好きだよ、飛鳥が」
「……。聞こえないよ」
「好きだ」
「聞こえないよぅ、もう………」
飛鳥の胸に、残酷すぎる痛みが走った――。
それはずくずくと疼(うず)き、何かを燃やしてしまう。
何かが、燃え尽きていってしまう……。
夏を迎えたはずなのに……。
ぽっかりと、空いた穴は大きくて。
私には、どうにもできないよ……。
こんなの嫌だよ。こんな気持ちなんか、どっか行っちゃえ……。
苦しいよう、慎弥……。
助けてよう、
強く否定して、
もっと強く、
もっともっと強く否定して、
じゃなきゃ、私達……。
私を好きだと言ってよ。
もう一度、抱きしめてよ……。
「わかった。飛鳥の言うとおりだな……。ごめんな、最後まで、守ってやれなくて」
「うん……」
飛鳥の瞼(まぶた)から、大粒の涙がこぼれて、落ちた……。
バイバイ、慎弥……。
「絶対幸せになれよな……。ま、大丈夫か。飛鳥は、可愛いからな」
「うるせえ、早くいなくなれ………」
そう言った飛鳥は、両手で顔を隠して、声を殺すように泣き始めた。
光葉慎弥は、ゆっくりとそのベンチから腰を起こして、俯(うつむ)いている飛鳥の頭に、優しく、片手を乗せた。
「勘弁(かんべん)な……」
飛鳥は嗚咽(おえつ)を上げて泣き始める。光葉慎弥は、最後に一度だけ、愛しそうに、泣いている飛鳥を振り返ってから、また歩き出した。
森林公園にいる誰も、今日ここで、この時に、愛し合う若き恋人同士が決別した事を知らない。
それは二人だけのエンドロール。
二人だけの知る痛み。
二人だけの知る儚さ。
二人だけの知る悔しさ。
二人だけの知る、愛し合った時間。
飛鳥は、上を向く……。いっぱいに溜めた涙を、こぼさぬようにして、涙はこぼれていく。
それは次から次へと続いていく現象で、二人歩んだ時を遡(さかのぼ)るような尊さが、何処からか、世界中の悲しさを集めて来ている。