ここにしかないもの
とてもじゃないが、そんな小さな身体に宿った寂しすぎる現象は、とてもじゃないが、己の力では、今はまだ、止める事ができなかった。
どうしようもなく、抗(あらが)う事のできぬ涙。
それが、初めて体験する、恋の終わりであった。
7
寝付けなかった夏の夜の事。飛鳥はあの日、光葉慎弥と付き合う事になった、あの日以来足を運ぶ事のなかった、思い出深い客の来ないBARに訪れた。
自分を覚えているわけもないBARテンダーに、軽い会釈をして、あの日と同じフロアの中央にあるテーブル席に座った。
思った通り、客は一人もいなかった。
何で来たんだろう――。と、席を立ち上がった時、BARテンダーがカクテルを運んできた。
「え、注文、まだ……」
「私のおごりです」
口数の少ないBARテンダーは、そう言って一礼すると、元のカウンター奥へと引き返して行った。
飛鳥はきょとん、とカクテルを見つめる。
それは、あの日、飛鳥が最後に残して帰ったオリジナル・カクテルであった。
液体の分量も、コリンズグラスの半分ほどしかない。
しばし何も考えずに、BARテンダーを振り返っては、またカクテルを見つめる動作を繰り返したが、BARテンダーは説明どころか、眼さえ合わせようとしなかった。
飛鳥は、恐る恐る、カクテルを呑み込んでみる……。
まるでそれは、嘘のように、あの日の記憶を呼び覚ました。
次に、もしかしたら、エスカルゴが運ばれてくるかもしれないと、そんな馬鹿げた予感がよぎった。
しばらく、味わってカクテルを呑んでいると、無口なBARテンダーは、五枚入りのエスカルゴの専用鉄板に、エスカルゴを二枚だけ載せて、また頼んでもいないそれを運んできた。
飛鳥は、BARテンダーを見上げて、くすくすと笑った。
来店してからものの三十分で、気分は悪くない方向へと向かっていた。
出入り口のカウ・ベルが、高い周波数の音色を響かせた。
飛鳥は、吞み干したコリンズグラスをテーブルに戻してから、メニュー表を開いた。
「よく帰らなかったな……」
「なんとなく?」
飛鳥は、光葉慎弥を見上げた。少しだけまだ、息を切らせながら、子供のような笑みを浮かべている。
「いつかは、来てくれるんじゃないかと思ったんだ」
「公園の方には、もう三回も行ったけど……」
飛鳥はつんとして、向かいの席に座った光葉慎弥を一瞥した。
光葉慎弥は、やわらかに微笑む。
「あそこには、知らせてくれる優しいバーテンがいないから」
「そんで何、あの日の続き?」
「ああ、もう一度口説(くど)く。好きにさせてみせる……。魔法、使えるからな」
「まだ言ってんの……」
「腕、組んでくんなくてもいい……。俺の事、許さなくていい。ただ…、また。もう一度俺の事を好きになってくれ」
「………」
「………」
「魔法……、使った?」飛鳥は、上目遣いで光葉慎弥を見つめる。
その表情は、今にも泣き出しそうな、そんな笑顔であった。
光葉慎弥はまっすぐに飛鳥を見つめて言う。
「今度こそ、春には、桜並木、歩く………。二人で」
「まだ言ってんの……。何年おんなじ事言ってんのよ」
「っはは、また、好きになれたか? 魔法は、きいたか?」
「ううん、残念」
最初っから好きだもん……。
「やっぱ難しいかあ」
「ふふん」
ばか。男だろ。がんばれ慎弥。
女の子は、情けないところ見せらんないんだぞ。
だから、男が、がんばれよ。
慎弥……、がんばれ!
好きなんだよ。
あんたを。
今でも変わらずに――。
「ストーカーになっていい? っはは」
「ううん、やだ」
「冗談だよ」
「ううん、冗談でもやだ」
「手厳しいな、相変わらず……」
「ううん、そうじゃなくて」
ちゃんと言って。
もう一度、心込めて。
心から。
言って。
そしたら私……。
「愛してる。最初っから、やり直そう。俺、新しい就職先、見つけたんだぜ」
飛鳥は椅子を吹き飛ばして。
テーブルを避けるように急いで。
光葉慎弥に飛びついた……。
「ばかぁ……、さびしかったんだぞぉ……、ばかばかばかぁ……、慎弥の……、ばか……」
「もう離さない……」
光葉慎弥は、強く、飛鳥を抱きしめた。
飛鳥の瞳から、大きな涙の粒が溢れていく……。
ほどよく二人とも酔いが回った頃、光葉慎弥は運転代行会社に電話して、飛鳥の乗ってきた車に、代行の運転手を雇(やと)った。
車内で、指先を重ね合うようにして繋いだ手と手。クーラーが夏の夜の蒸し暑さを掻き消してくれていて、BGMやラジオは流されていなかった。
今は、飛鳥の静かな寝息だけが聞こえている。
光葉慎弥は、幸せそうに、飛鳥の顔を見つめて、少し笑った。
この広い世界でやっと見つけた、たった一人の愛する存在。
この人を、生涯、守り抜く――。
光葉慎弥は、ふと、運転手の声に耳を反応させた。
黙ったままで、慌てふためく運転手の言葉をきいていく……。
車はスピードに乗ったまま、その速度を一向に落とそうとしない。
光葉慎弥は、眠る飛鳥の両肩を強く掴んで、飛鳥を眠りから起こした。
「ん、なにぃ…?」
「飛鳥……。飛鳥に会えて、良かった、本当に……」
「んなにぃ? なんなの……」
飛鳥は、はっきりと眼を覚ました。
夢の中では、光葉慎弥と一緒にいた。
眼を覚ました後も、光葉慎弥は笑ってくれていた。
「どうしたの? なんで笑ってるの?」
「幸せだったから」
「なにが……?」
飛鳥の耳を、優しく塞(ふさ)いだ光葉慎弥の両手は、温かかった。
「大好きだよ、世界中の、誰よりも」
「なに、なんか変だよ慎弥……、運転手さん、何言ってるの? 何か言ってるよ?」
「抱きしめたい、飛鳥……。いいか?」
「えぇ?」
「何も怖くないから」
その小さな耳から、両手を離して……。
光葉慎弥は、飛鳥の事をぎゅっと、強い力で抱きしめた――。
「へ、待って慎弥…、運転手さんがおかしいって…、何か言ってるっ……」
「愛してるよ……。心配すんな、俺が絶対守ってやるから」
飛鳥の頭を、自分の胸の中に抱きかかえるようにして――。次の瞬間、飛鳥を抱きかかえる光葉慎弥は、後部座席のドアを開いて、高速で走る夜景の中に、跳び込んだ――。
気がつくと、人だかりの中で、飛鳥は救急車の担架(たんか)の上に乗せられていた。
「気がつきました」
「お嬢さん、どこか、痛いところはある?」
飛鳥は、走馬灯(そうまとう)のように、先ほどまでの時間を思い出していく……。
「慎弥は!」
「お嬢さん、痛いところ、ありますか?」
「痛いところなんて無いっ! 慎弥はどこっ!」
担架(たんか)から飛び起きて、飛鳥は夜を騒がしている警察官の集団と、もう一台の救急車をその眼に垣間見(かいまみ)る。
もう一台の救急車に乗せられている担架の上に、光葉慎弥の脚が見えた――。そのエアジョーダンのスニーカーは、確かに光葉慎弥のもので……、その破れたジーンズは、確かに光葉慎弥が今日、先ほどまで着ていた洋服だった……。
「慎弥ぁっ‼‼」