ここにしかないもの
飛鳥は、吹き出すのを我慢して、鼻を鳴らして笑った。
光葉慎弥は、下げていた顔を上げて、にこっと無邪気に微笑む。
「魔法はかかりました。ほら、笑った」
「ふふん……」
気がつくと、飛鳥は帰りたがっていた気持ちを掻き消されていた。本当に魔法が使えるとは到底思えないが、気が変わったのは事実だった。
「お腹、減ってる?」
「ううん、まだ……」
光葉慎弥は微笑む。
「映画、観に行きません? 俺がいつも行く映画館、白黒の映画やってるんですけど、職場のおっさんに教えてもらって観てから、ずっと何年もハマってて……。良かったら、一緒に」
飛鳥はまた、考える。ほぼ面識のない、というか、ほぼ初対面の男の人と、映画館で映画鑑賞。それも、あまり面識のないモノクロ映画……。
考えている己を充分に意識しながら、興味を持っている自分がいた。
正直、映画は好きだし、映画を観るなら、確かに自分は映画館派である。
光葉慎弥は、変な奴ではなかったし。いや、ちゃんとお礼を口にできる常識のある人間だった。ラインで先に簡単に礼を口にせず、ちゃんと面と向かってからのお礼を選んだ事は、評価に値する。
二時間ぐらいなら、付き合ってやってもいいかもしれないと思えた。
「うん。いいですよ、別に」
「はあ良かった……。今日何を上映してるかは実は知らないんだけど、映画館って、常に何作も上映してるんで、1つぐらいは気分の奴、あると思います」
光葉慎弥は、ビー玉のように透き通るような眼で、はにかんだ。
「今、どんな気分?」
「ええ? ………どん、な…、気分、だろぉ……」
光葉慎弥は笑顔のままで、席を立って、そのまま会計カウンターへと歩いて行った。飛鳥は「ええ?」と焦(あせ)りながら、スマートフォンと本をバッグにしまって、席を立つ。
そこからすぐ近くの、新文芸坐(しんぶんげいざ)へと二人は訪れていた。光葉慎弥は「ここのチケットは買い方が難しいんで、プロしかチケットの支払いができないんです」と簡単な嘘をついて、飛鳥を笑わせながら、二人分のチケットを買った。
一本目の白黒映画を観終わった後、飛鳥はその白黒映画の押し寄せるような大波の感動に、絶大なる満足感を覚えていた。
今日という時間が終わってゆくのを忘れながら、二人は立て続けに何本も白黒映画を観た。
新文芸坐を出ると、飛鳥は光葉慎弥の案内で、彼の行きつけだというBARで晩い夕食を食べる事にした。
BARに入ると、そこに客の姿は全くなく、本当に営業中なのかと疑ってしまうほど、がらがらで、八十年代風の洋風な雰囲気に、飛鳥は昔のアメリカの片田舎にでもタイムスリップしたかのような錯覚に襲われた。
腹が鳴りそうだった。中央のテーブル席に着席して、二人はすぐにメニュー表を開いた。
光葉慎弥は笑顔で言う。
「帰りの運転は、俺のいつも使わせてもらってる運転代行に頼めばいいよ。そこの運転代行も、このBARも、支払いはプロしかできないんだけど、今日は我慢して、支払いは俺にゆずってね」
飛鳥はくすくすと笑う。
「今日は少し呑んじゃおう、俺はそんなに強くないけどね、はは、最高の出逢いには、乾杯したいよね」
「やっぱり嘘ついてない?」飛鳥はじいっと、光葉慎弥を睨むように見つめる。「いっつもそうやって、女の子ナンパしてんじゃないの?」
「それは無いな、残念。推理失敗」光葉慎弥は笑った。「ここなんでも、普通の味なんだ。チンだから。でもすぐに出てくるから便利なんだ。もう腹ペコでしょう?」
「うふん」飛鳥は懐っこく笑って頷(うなず)いた。「もう限界に近い……」
「食おうぜ」
「わっしは、何に、しよう、っかなぁ~………」
海鮮グラタンと牛ひれステーキ、那須とアサリのミートパスタを食べ終え、カクテルとビールを数杯おかわりした頃には、二人は完全に打ち解けていた。
飛鳥は口を結んで、斜め上を見上げながら考える。
「んん~~……」
「自分で自分の長所をわきまえてる奴は、いい奴なんだってさ。だから、人格判断。へへ、自分の好きなところでもいいよ」
飛鳥は、潤(うるお)いの煌(きら)めく大きな瞳で、光葉慎弥を見つめた。
「強(し)いて言うなら…、キレイ好きなとこ? かなぁ……」
「はい1つ」
「あと、過剰に自分を卑下しない……」
「はい2つめ」
「ええ、あとなんだろ……。ああ、お母さんを大切にしてる、かな……」
光葉慎弥は笑顔で大きく頷(うなず)いた。
「グッジョブ」
「はい、君の番」
飛鳥はそう言って、ストローでカクテルを呑む。
「ストローで呑むと酔うよ?」
「……。いいから、はい。あんたの番」
光葉慎弥は首をひねって考えながら、答える。
「映画が好き……」
「そぉれって、長所なわけえ?」
飛鳥は小馬鹿にして陽気に笑った。
光葉慎弥は構わず考える。
「え~……なんだ? んん~~……、免許証を持っている?」
「それもふっつう」
飛鳥はけらけらと無邪気に笑う。
「動物が好き……」
「あ、それ長所っぽい……」
光葉慎弥は大きく手を上げた。すぐに気がついたBARテンダーが、カウンターの奥から二人のテーブル席までやってきた。
「この人、超静かなのに、ちゃんと客のサイン見てるんだよ、凄くね?」
「いいから、頼むんなら早く頼みなよ、待ってるんだから……」
「とっておきの、頼もうよ。まだ入るでしょ?」
「んんん、お腹いっぱいだけどね……。まあ、つまみながら?」
「おけ。じゃあ、エスカルゴ……。あと、この女性に、マスターのオリジナル・カクテルを。俺にも、おんなじものを」
沈黙したまま、礼儀正しく一礼を残して、BARテンダーはカウンターの奥へと戻っていった。
光葉慎弥は、にこやかに飛鳥を見つめる。
「はい、自分の短所!」
「またあ?」
「さっきは長所、今度は、短所」
光葉慎弥はにっこりと笑った。
「俺は短所なら言えるよ……。すぐ1つの事しか見えなくなる」
「あ~、へ~」
「映画ばっかり観てる」
「それ長所で言ったじゃん」
飛鳥はけらけらと笑う。
光葉慎弥は、指折り数えながら言う。
「最後は、運がいいのか悪いのか、よくわからない事」
「へ~……、あでも、それって短所なの?」
「わっかんね。でも昔っからそうなんだ。おみくじで大凶を引くけど、いい事が起きたり、抽選で何か大当たりしたりするんだけど、ガラクタだったり……」
「ふうん……」
「はい、飛鳥ちゃんの番」
「短所ぉ?」
「うん」
光葉慎弥はにっこりと頷(うなず)いた。
飛鳥は、小首を傾げて、無表情で考え始める。
「態度が悪そうに、見えちゃうとこ?」
「へえ」
「あとぉ……、他人の顔色をうかがいすぎる……」
「そんなんだ」
「もい?」
「じゃあ、最後」
光葉慎弥は、人差し指を一本だけ立てた。
飛鳥は、苦笑しながら、答える。
「人の、不幸な瞬間が好き……はっは、っひっひっひ」
大笑いを始めた飛鳥を見つめたまま、光葉慎弥は囁(ささや)く。
「君を好きになりました」
飛鳥は、笑い声を弱くして、今はっきりと意識の中に入り込んできた光葉慎弥の一言に、その笑みを、完全にその表情から消した……。