ここにしかないもの
3階まで上がり、新文芸坐(しんぶんげいざ)で白黒のシネマを観た。ロビーでは、近くのネパール料理店の〈サグーン〉のカレーパンと軽食などが販売されている。二人はそこでカレーパンとキャラメルポップコーンを購入して、飲み放題のドリンクバーも利用した。
「去年は森林公園に雪が積もったのにな、今年は雪はふんねえのか……。なんか、物足りなくね?」光葉慎弥は無邪気ににかっと笑みをみせた。
「ん~……、降ったら降ったで、寒いしなぁ……」飛鳥は、改めて煌(きら)めく瞳で光葉慎弥を見上げる。「あ、明日、森林公園行くよ」
「え、雪、降ってないのに?」光葉慎弥は、少しだけ驚いた顔をした。「好きだな」
「好き好き、あっこが一番落ち着くもん……」
「よし、じゃあ行こう」
「はぁぁ……」
光葉慎弥は、横目で飛鳥を一瞥する。
「どした、溜息なんかついて」
「ウソだ、これ……。これ全部、幻なんだ、きっと……」
「はあ?」光葉慎弥は呆(あき)れたように飛鳥を見つめる。「何言ってんだよ……」
「だって……」飛鳥は、上目遣いで、光葉慎弥を見上げる。「幸せすぎるもん……」
「な~んだ」光葉慎弥は小さく笑った。「そんな事か」
「そんな事かって、…大事な事よ……」
「溜息なんてつくから、びびったよ」
「何がぁ?」
飛鳥は、コップに口を付けたままで、上目遣いで光葉慎弥を見つめる。
「ん?」
光葉慎弥も、飛鳥を見つめる。
「いや、飛鳥はさ、すっげえ、いい女だから……。こんなクリスマスじゃ満足できないのかと思って……」
「ばかか」
「良かった」
「ばかですか……。満足してますよ、まあまあだけど」
光葉慎弥は子供のように口元を引き上げる。「幸せすぎるって言った癖に……」
飛鳥は、頬を赤らめて、眼を細めていた。
「この後、ミッドナイトシアターもやるんだよ……。もう一作ぐらい、なんか観るか?」
「どうしよっかな……」飛鳥は、光葉慎弥の顔を見る。「観たい?」
「う~ん、微妙」光葉慎弥は苦笑した。「ただ、もうホテル行く金もねえし、飛鳥んちに直行するか、もう一本映画観ていくか、だよな」
「ホテルなんか行くかっ」飛鳥は視線を逸らしてから言った。「行くかボケっ」
「そんなに否定しなくてもいいだろ……」光葉慎弥は、溜息をついた。「腕も、組んだ事ないしな……」
「だって……」飛鳥は、俯(うつむ)く。
「あ」光葉慎弥は微笑む。飛鳥もふいに光葉慎弥を見上げていた。「でも今日、手ぇ繋いだな? っはは、記念日になるかな?」
「そんな記念日記念日、バカップルじゃあるまいし……」
「バカップルけっこうだね。目指せバカップルだよ、俺は」
「む~りむり……、それは、やめて。やめよう? ね」
「なんちゃって」光葉慎弥は悠然と口元を引き上げて、飛鳥を見た。「じゅうぶん、俺は今が幸せ……。マジで、東京に来て良かった、て思えたもんな……。工場働きに明け暮れてた頃は、東京に来ちまったのは間違いかとも思ったよ」
「そんなもん?」
「ああ」
「ちぃがくて!」
「え?」
飛鳥は強い視線で、光葉慎弥を見上げる。「東京に出て来て良かったって、私に会えた喜びって、…そんなもんなの?」
光葉慎弥は、じわりと笑った。
「何よ……」
「飛鳥って、わっかりやすいツンデレな」
「あ?」飛鳥はしかめっつらになる。
「いいよいいよ、じゃあ言い換える。飛鳥に出逢えたのは、俺の人生の全てだよ」
「うん、わかりゃそれでいい」
「クリスマスが終わったら、もうすぐ、春が来る。そしたら…、なかなか会えない時間が長くなるな……。耐えられるかな、飛鳥ちゃんは」
光葉慎弥は、笑顔で飛鳥を見つめてから。すぐにその笑みをしまった……。
飛鳥は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、俯(うつむ)いていた。
光葉慎弥は、何か言おうとしたのだが、考え直して、その言葉を心にしまった。
「………めて」
「え?」
飛鳥は、潤(うる)んだ瞳で、光葉慎弥を見上げた。
「抱きしめて………」
光葉慎弥は、穏やかに静かな眼で、飛鳥を見つめる。
「人がいっぱいいるの、嫌じゃないか?」
「いいから」
光葉慎弥は、強く強く、飛鳥を抱きしめた……。
胸に圧しつけられた飛鳥の息遣いが、荒くなっているのが伝わってくる。
光葉慎弥は、飛鳥を抱きしめたまま、上を見上げた……。なぜ、今の工場にそんなに拘(こだわ)る必要がある。
こだわる必要は、ないんじゃないのか。
大切な人を泣かせてまで……。
光葉慎弥のジャンパーの背中を、ぎゅっと強く掴(つか)む飛鳥の小さな手の感触に意識を引き戻され、光葉慎弥は飛鳥の頭に短いキスをした。
「ごめんな、飛鳥……。来年の春、越したら……。仕事の事、もっとよく考えてみるから」
光葉慎弥は、また、強く強く、飛鳥の背中を抱きしめた。
息を殺しながら何も答えない飛鳥の沈黙は、しばらく、聖夜の夜に響く事なく続いた。
4
冬が終わり、春を迎えると、光葉慎弥の工場勤務の時間は悲劇的に延びた。会える時間が激減していった飛鳥と光葉慎弥は、そうなる事を恐れていたにもかかわらず、限られた時間さえも、ぎこちなく過ごすようになっていった。
愛しいはずなのに。会いたいはずなのに。無理をして会えば会うほどに、会話はうまく嚙み合わなくなっていった。
それは紛(まぎ)れもなく、二人が交際を開始してから体験する初めてのすれ違いであった。
飛鳥は、素直になれない己に憤(いきどお)りを感じて。光葉慎弥は、飛鳥を傷つけてやいないかと、何でも控(ひか)えめになる。出逢ってから、互い違いのボタンをうまく掛け合わせていた日常から遠ざかり、覚えた事のない寂しさが二人の胸に広がりをみせている。
しかし、そんな塞(ふさ)ぎこんでしまいたくなる毎日を、がらりと変換してくれる出来事もあった。今年入社したての遠藤さくらが、三人目のルームメイトに加わったのである。
飛鳥は己の顔よりも大きなキャラメルポップコーンの箱を抱えながら、座り込んだ絨毯(じゅうたん)に砕(くだ)けたキャラメルポップコーンが散らばっていないかと、暗闇の中でじっと、コンタクトレンズに視力を頼っている眼を駆使(くし)して、手探りで絨毯の上を撫(な)でていた。
遠藤さくらは隣で体育座りをしながら、みたらし団子を食べながら、不思議そうに飛鳥の事を一瞥した。
「何してんですか、さっきから……」
「いや、粉とか落ちてないかなぁーと……、落ちてたら嫌だな~って思って……」
三人の真ん中に体育座りした遠藤さくらの横にいる山下美月は、体勢を反らして、飛鳥の姿を覗き込んだ。
「電気つけます?」
「あいや、だって映画観てるでしょ、いいよいいよ、だいじょぶ……」
「これつまんないからどうでもいいですよ」
「はあ?」飛鳥は咄嗟(とっさ)に、驚いた顔で山下美月を見つめた。「あんた、ほんっとに感性が狂ってんのかね? いるよね、古き良き名作を理解できない素人(しろうと)……」
「飛鳥さんはプロなんですか?」山下美月は座視で飛鳥の事を見据(みす)えた。「電気つければすぐ解決しますよ?」
「いいの、もうやめたから」