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ここにしかないもの

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 あきらめるなと、彼は私に言う。それはとても強い視線で、とても周波数の低い声で、怒っているわけでもなく、要求しているわけでもない。泣き出しそうな、子供のような顔で。あいつは私に挑戦し続けろと言った。
 そんなあんたが、隣にいないんじゃ……、弱い自分がよく見えちゃうじゃない。
 山下美月も遠藤さくらも、こんな私を鼓舞(こぶ)してくれる。根が真面目で頼り甲斐(がい)のある現実主義者(リアリスト)の山下美月と、借りてきた猫のように大人しいけれど、実は図太い神経の持ち主で楽観主義者(オプティミスト)の遠藤さくら。
 この二人には、正直、慎弥とうまくいかないじれったくて、居心地の悪い孤独な時間を、何だかんだと埋(う)めてもらっている。
 本当に助かっている。
 プライドが邪魔して、面と向かって、感謝はまだ言えないけれど。
 この子達がいなければ、私から慎弥を取り上げようとする神様を、本気で恨(うら)んだかもしれない。生まれてこの方、一度も神様には逆らった試しがないのにね。
 自立しなければ。
 自分で、強くいなければ。
 そう、何処かではわかっているのにね。
 一番大切な支えが消えかかった途端に、私の火は消えかけてしまった。
 山下美月は、黙ったままで己を無意識に見つめている飛鳥から、そうっと手を伸ばしてキャラメルポップコーンを奪おうとする。
 飛鳥ははっとなった。
「何してんのよ……」
「あ、気絶してなかった……」
「するかアホ!」
 山下美月は悪ガキのようにちろっと舌を出す。飛鳥は座視でそれを見つめた。
 遠藤さくらは無表情で、飛鳥のキャラメルポップコーンを鷲掴(わしづか)みして、一粒ずつ口に運んでいく。
「なんなのよ、あんた達は……。えんちゃんみたらし団子食べてたんじゃないの?」飛鳥は眉間(みけん)を顰(ひそ)めて遠藤さくらを睨(にら)んだ。「それ私のなんですけど……」
「食べ終わっちゃいました」遠藤さくらは、にこっと少女のような笑みを浮かべた。「ポップコーンって美味しいですよね」
「あ、じゃあ私も」山下美月は手を伸ばす。
 飛鳥はぷいっとキャラメルポップコーンを持ち上げた。「買って来なさいよ、これ在庫もう無いんだから……」
「けち」
「ていうか、観ないんですか、映画……。泣くとこですよ、今、たぶん……」
 飛鳥は立ち上がって、リビングを歩き、夕焼け色の間接照明をつけた。
 リビングがうっすらと明るくなった。
「はいやめやめ、映画鑑賞はもう終わり……。もう寝なさい、あんたらは」
「えー女子会終わりですかぁ~?」山下美月は、残念そうに飛鳥を振り返った。「まだ眠くないも~ん……」
「あんたらは、て……、じゃ、飛鳥さんは?」遠藤さくらも、後ろを振り返って、飛鳥の事を見上げた。「あ、どっか出掛けるんですか?」
「私は……、やる事を、やるよ」飛鳥は、立ち尽くしたまま、眼を逸らした。
「何です、やる事って?」山下美月は不思議そうに飛鳥を見つめる。
「……」遠藤さくらも、飛鳥を無垢(むく)な視線で見つめていた。
「デザイン………、描いてから寝る」
飛鳥は、そう言ってキッチンの方へと引っ込んで行った。
山下美月と遠藤さくらは、嬉しそうに二人で眼を合わせる。
「は~い寝ま~す!」山下美月は微笑んで、大きく片手を上げた。
「がんばって下さいね、飛鳥さん!」遠藤さくらも頬(ほお)に手を添えて小さく叫んだ。
 キッチンから、「うるせえ、早く寝ろ!」と飛鳥の声が返ってきた。付け加えて「あ、片付けてから寝てね!」と声が聞こえる。
「は~い」山下美月は笑顔でキッチンの方に答えた。「さくちゃん、片付けよっか?」
「はい」遠藤さくらは微笑んで、頷(うなず)いた。
 心の何処かで、前向きになりつつある自分もいる。
 しかし、また心の何処かでは、光葉慎弥との遠ざかっていく心の距離を恐れたまま、どうにかして、その痛みを伴(ともな)う二人の距離を近づけようと、赤子のようにもがきあがく、惨めに泣き続けている自分もいた。
 春が終わってしまえばいい……。
 己が成功を収めた季節を、また今年も、嫌いになりそうになっていた。

       5

 夜祭りの出店が並ぶ、提灯(ちょうちん)の並んだ街道を、一人きりで、なんとなくぶらついていた。私に話しかけてきた慎弥は、ドラえもんのお面をつけていて、ひどく酔っぱらった状態だったな……。

 真夏の光線が眩しかったある日の七月の夕方、飛鳥はラインで連絡を取り合った光葉慎弥という男と、都内の喫茶店で待ち合わせをしていた。
 店内はしんと静まり返っているわけでもなく、音楽が聞こえる程度に客達は会話を楽しんでいる。
 飛鳥はアップルウォッチを一瞥する。時刻は約束のPM18時を少し過ぎていた。
 外の景色が見える大型の窓となっているガラス製の壁の向こうに、店内を覗き込んでいる怪しい男がいた。飛鳥は直感する、それが光葉慎弥だと。
 店内に入ってきた半袖のボタンシャツとジーンズにエアジョーダンのスニーカー姿で現れた光葉慎弥は、すぐに本を読んで澄ましている飛鳥を見つけて、黙ってそのテーブルに相席した。
 飛鳥のラインに、光葉慎弥からのラインが入る。

 しんや
 今、目の前にいます。

 飛鳥は、スマートフォンをテーブルに戻して、ゆっくりとした仕草で、光葉慎弥を見つめた。
 光葉慎弥は、白い歯をみせてにかっと笑っていた。
「あの、どこで…、会ったんでしたっけ?」
 飛鳥は眼を細めて、一瞬の思考で帰ろうかどうかを迷った。心の中で己が呟(つぶや)く。「来なきゃよかったかも…」と。
 飛鳥は沈黙を嫌って、光葉慎弥をつんと見つめる。
「夜祭りで……」
「ああ、ああああ、」
 飛鳥は光葉慎弥の顔を指差す。
「ドラえもんのお面、つけてて……」
「ああ、あの日の、看護師さん……」
「看護師じゃ、ないですけど……。たぶん、その人です。ども」
 光葉慎弥はにっこりと微笑んだ。
「光葉慎弥です、初めまして……あ、会うの二回目か、なんて、言えば……、久しぶり? なんか違うな……、こんばんは?」
 飛鳥はつんとした態度で、眼の前で本でも読み始めてやろうかと腹を立てていた。
 何と言って席を立つかを考え始める……。すぐに、帰りたい。
 ナンパ野郎に用は無かった。
「先に言っておきます、俺は嘘がへたで、お世辞(せじ)も言えないぐらい、思った事しか言えなくて……。ナンパした事なんて、もう本当になくて」
 飛鳥は、光葉慎弥を、きょとん、とした瞳で見つめる。
「本当に、あの時はありがとう。マジで、死にそうだったんだ……。だけど、救急車って、乗った事なくて、金、かかるのかな、とか…、考えてたら、呼べなくなって…、そのうちにマジで酔いがヤバい事になってきて……」
 光葉慎弥は、笑みを消して、真剣に、頭を下げてみせた。
 飛鳥は、きょとん、とそれを見つめている。
「本当に、助かりました…ありがとぉ……」
「いえいえ……」
「魔法を使えるんです、俺……」
 そう言った光葉慎弥は、もう笑顔だった。
 飛鳥は眉間(みけん)を顰(ひそ)める。
「魔法ぉ?」
「俺は今日、君をたぶん、好きになります……。だから今日一日だけ、俺に下さい!」
「はぁい?」
作品名:ここにしかないもの 作家名:タンポポ