齋 藤 飛 鳥
「私なんて、ふっつうにアイス・コーヒー、て注文してるからね、いつも。今日は違うけどさ」
山下美月は美しく見開かれた大きな瞳で、ホットコーヒーのカップを見つめながら囁いた。
「あすぴーさんのコーヒーと一緒ですか?」
遠藤さくらは山下美月を見つめて言った。
「そ~一緒にしたの~~」
山下美月はにっこりと屈託(くったく)なく微笑んで、齋藤飛鳥に微笑んだ。
遠藤さくらは、ころころとした可愛らしい円(つぶ)らな瞳で、今度は齋藤飛鳥を見つめる。
「えんぴーさんのコーヒーって、何て言えば頼めますか?」
「ん?」
齋藤飛鳥は、ホットコーヒーに視線を落として、呟(つぶや)く。
「今日の何だったかな……。サントスかな……」
久保史緒里は興味深そうににやけて言う。
「どこ産のですか?」
「ブラジル……」
久保史緒里は眼を見開いて、その美形を大袈裟(おおげさ)に微笑えませながら驚く。
「ブラジル産の、サントス! っはあ~~、つうだわ」
齋藤飛鳥は眉根を寄せて苦笑する。
「いやけっこう入り口よ? サントスってったら。ああまあ、挽(ひ)き方で、さっぱりも甘くもなるけどさ……」
遠藤さくらは、齋藤飛鳥のその説明中も、齋藤飛鳥の右手の指先を己の左手で掴(つか)んでいる。何度、齋藤飛鳥がやんわりと手を離しても、遠藤さくらはあきらめずに齋藤飛鳥の右手の指先をぎゅっと掴んでいた。
久保史緒里はホットコーヒーを息で冷ましながら言う。
「コーヒーだと、ブルーマウンテン、てよく聞きません?」
齋藤飛鳥は声と視線で反応する。
「ああ、よく飲むよ」
久保史緒里はホットコーヒーを息で冷ましながら、横目で齋藤飛鳥を見つめる。
「最高峰(さいこうほう)ってよくいいません? ブルーマウンテンが……」
「あぁ~、どう、だろうねぇ……。美味しいのは、美味しいけど。でも、気分で飲むからなぁ…色々。なぁにが美味しいんだろ」
梅澤美波は眼を笑わせて、思い浮かんだ質問をする。
「え、基本ホットですか?」
「ううん、アイスだと思う」
山下美月は、ホットコーヒーを一口飲んで、満たされた、というような至福の笑みで眼を瞑(つぶ)った。
「ああ~……、お~いしい。こんな美味しいのいつも飲んでるんだ飛鳥さん」
久保史緒里も、まだ熱いホットコーヒーを、恐る恐る一口飲んでみる。
「……あ、うん。美味しい美味しい」
「えーゆうきも飲んでみよー……」
与田祐希はホットコーヒーを一口飲んだ。
「ん……、んん~? お砂糖、入れよう」
金川紗耶はアイス・カフェラテをストローで飲む。
「うん、やっぱり美味しい……。えここのって、全部美味しいですよね? 美味しくないですか?」
梅澤美波は鼻を鳴らして笑った。
「ふ、まだまだ可愛いな、四期は」
齋藤飛鳥は言う。
「肉はうまいよね」
岩本蓮加は言う。
「え、今日ここでお風呂入ります、か? 皆さん……」
唐突な岩本蓮加の言葉に、皆は少しだけ思考する時間を要した。
齋藤飛鳥は恐ろしく整った澄ました表情で言う。
「帰るよ、私は……」
梅澤美波は言う。
「私も帰るかな」
久保史緒里は、考える。
与田祐希は眠たそうな笑みを浮かべて言う。
「ゆうき、泊まる。てか、もう寝る」
山下美月は考えている。
「明日早いんだよなぁ~……。う~~ん、どうしたらいいんだろ」
遠藤さくらは黙っている。また、齋藤飛鳥に手を離されたので、必死に掴みにいく。尚、その攻防は皆には見えていない水面下の攻防であった。
金川紗耶は言う。
「私、泊まってきます」
皆は自然と宙を見上げる――。清流のせせらぎが響くその広い座敷の空間に、電脳執事のイーサンのしゃがれた老人男性の声が響いたのであった。尚、『イーサン』とはこの巨大地下建造物を統括管理するスーパー・コンピューターの総称であり、音声で忠実に仕える便利なここの執事でもあった。
『宮間様が合流したいとの申し出でございますが、いかがなさいますか?』
齋藤飛鳥は苦笑して囁く。
「ミヤマか……」
梅澤美波は少しだけ驚く。
「あ、もう呼びつけですか? さすが飛鳥さん」
「いやいや、違う違う。ミヤマは、ミヤマクワガタの、ミヤマだから」
与田祐希は言う。
「え、でもあと一時間ぐらいはここにいますよねえ? まだデザート、食べてないし」
山下美月は苦笑する。
「あんれだっけ食べて、まあだ食べんの?」
岩本蓮加は、出入り口を見つめて、はにかんだ。
「あ、来た来た……」
清流のせせらぐ和の癒し空間の出入り口には、ブーツを脱いでいる首に双眼鏡を下げた迷彩柄のキャップを深くかぶる宮間兎亜の姿があった。
9
二千十九年八月十日――。東京都港区のとある高級住宅街に秘密裏に存在する巨大な地下建造物、その名も〈リリィ・アース〉。【リリィ】は架空の恋人の名を表し、【アース】は地球、すなわち住処(すみか)を表している。『架空の恋人の住処』、それこそが〈リリィ・アース〉の名前の由来である。名付け親は風秋遊。世界的大企業(株)ファースト・コンタクトのCEOであり、月野夕の父親でもある。
月野夕は二千十八年の十二月十六日の十九回目の誕生日に、母親と籍を入れた風秋夕の正式な子息となり、姓名が月野夕、から、風秋夕(ふあきゆう)になった。
風秋遊はジッポライターで、咥えていた赤のマルボロに火をつけた。喫煙可能なカフェである為、遠慮はいらなかった。煙草の箱を円卓の網のようなテーブルに置いて、吹き荒ぶ風に耐えながらロングコートを深くよせて、脚を組み替えた。
表参道にあるそのカフェの店内は満員だった。野外席だけ、物好きがぽつぽつと座っている。
『夕、母さんの腹の中にお前がいたって、知らずに今までいて、恨(うら)んでるか』
風秋夕は頬杖(ほおづえ)をついて、余所(よそ)を見つめながら答える。
『いいや、そういうのはないよ。いい暮らしだったし、楽しくない時間なんてなかった。少し、貧乏だったけどね』
風秋遊は、とんとん、と指先で網目のテーブルに音を立て、風秋夕の視線をもらった。
『ケジメはつけたけどな、俺の気は収まらん……。我が子の十八年間を知らずに過ごしてきちまったんだからな……。正直、赤ちゃんのお前を抱きたかった。名前も、ゆうじゃ、この風秋(ふあき)の姓じゃ苦労するだろうし……』
風秋夕は頬杖をやめて、爪を一瞥しながら、不敵な笑みを浮かべる。
『ふぁきゆ~、な……。まあ、苦労するだろうね。実際あんたが苦労してきたんだから、俺もそうだろうよ……。ま、気にしてないよ。しても仕方ないもんな』
風秋遊は、小さく、風秋夕を指差した。風秋夕は無表情で父親を見つめる。
『という事で、誕生日プレゼントだ。お前が俺から買い取るって言いはってた、あの地下の城……。それがお前への十九年分のハッピーバースデイの代わりだ』
風秋夕は抑え気味に、驚愕(きょうがく)した。深く蹲(うずくま)っていたカシミアのマフラーから、咄嗟(とっさ)に首が飛び出ていた。
『えっ‼ くれる、ていうのか、それ……、笑えねえし。くれんのかよ』
風秋遊は口元を引き上げて、無邪気な子供のような笑みを浮かべた。