ズッキュン‼‼
「夕君の、お父さんだよ」夏男は真顔に、うっすらと笑みをのせた。「ウパっていうんだけど……。ウパはね、十代の頃に、ジャンケンあるでしょう? あのジャンケンの中から、パーとグーを消して、自分は一生ジャンケンで、チョキしか出さないと制約をたてたんだ」
「一生チョキしか……」姫野あたるは、苦笑する。「む~ん、そぉれは、いささか…、きつすぎるでござるな~……」
「ウパはね、チョキはピース、平和だって言い張って、今もジャンケンではチョキしか出さないんだよ、っふふ」夏男はにっこりと微笑んだ。「君達は、無償(むしょう)では何も手に入らない事を、どこかで知っているんだろうね~……。無償か、ちょうどいい。――ダーリンはその、卒業を迎えた時……、周りには、何を望んだ?」
姫野あたるは即座に考え始める――。その間、夏男は己を呼んだ【イーサン】の声に応答して、〈レストラン・エレベーター〉からホットコーヒーを受け取った。
夏男は、まだ熱い淹れたてのホットコーヒーをすすりながら、姫野あたるを上目遣いで見つめる。
姫野あたるは、ふっ――と、夏男を見つめた。
「小生……、卒業する時には、別に、他人には何も望まなかったでござる……。考えたのでござるが……、卒業式で泣くでござるかな、泣かないでござるかな~と、多少期待にも似た感情で、そう考えたぐらいでござるよ……」
「うん」夏男は、マグカップをテーブルに戻した。「ようはね、自分なのさ……。卒業を迎える自分が、どう、卒業を見つめて…、どう卒業していくか、なんだよね……。逆に言えば、周りにこうしてほしい、なんていうそんな余裕は無いはずだよ。乃木坂なら尚更(なおさら)だね……」
姫野あたるは、黙って、まっすぐに夏男を見つめる。
「ライブのリハーサルや、取材、インタビューや収録とか、色々だよね……。ようは卒業スケジュールってやつだ……。俺もモーニングのオタやってる時に、何度も何度も卒業っていう、一種のぉ……、難関? を経験したけどね……、卒業にあたって、こうしてほしいとかは、たぶん無かったと思うよ。それは、ライブの演出とか、セトリとかさ、そういう形ではプロだから、ちゃんと逆にそういうのは無きゃあダメなんだろうけどさ……。個人的に、卒業においてファンにどうあってほしい、ていうのは…、たぶん、あんまり考えなくていいと思うけどね」
姫野あたるは、ソファにだらんと両手を置いて、視線をテーブルへと移した……。
「小生は、恩返しをしたいだけでざるのに……。その方法が、どうしても思い浮かばぬ……」
「俺から見たら、真夏さんを笑わせたいと思ったダーリンの心……、とっても素敵に見えるけどね……。それは恩返しをするよりも、もっと大事な思いなんじゃないかなぁ……」
姫野あたるは、夏男を見つめる。
「恩返しよりも、大事な、思い………」
「無償の愛だ」夏男は、微笑んだ。「何かをもらったから、何かを返すんじゃなくてね……。常に、そっとその人を大切に思い続ける事……。それは、無償の愛という、見返りを求めない、すっごく素晴らしい色をした愛なんだよ――。俺がこの世界中で、いっちばん好きな愛の形なんだ」
「無償の愛………」
「ダーリンは、それを普段からごく自然にしてるんじゃないのかな。無償の愛を受け取って…、無償の愛し方を、教わったんだね……。俺もそうだったんだよ。つんくさんの作る楽曲やその歌詞に感化されたり、感動したりぃ、共感したりして……、モーニングのごっちんとかぁ、なっちとか、かおりんとか、ミキティとかさ、あややとか……。まあハロプロだよね。そのみんなに、生き抜く力をもらった……。あれは、無償の愛、そのものだったよ……」
姫野あたるは、くすくすと笑った。
夏男は、「ん?」と眉を上げて、姫野あたるを一瞥した。
「夏男殿の、ハロプロへの愛は、もう行き止まりでごるか? 過去形でござるか?」
夏男は、ゆっくりと微笑んだ。
「本当にね……、人の人生って、その人にならなきゃ、わからないもので……。俺は、今ももちろん、世界で一番、ハローのみんなが大好きだよ。でもね、あの青春は…、あの時のあの興奮、あの一秒一秒は……、確かな事であったと、思い出にしておきたいのさ――。あは、過去形だった?」
姫野あたるは、首を横に振った。
「いや……。本当に、人生は、その人になってみぬと、こればかりはわからぬものでござろうな……。その喜びも、感激も、愛も興奮も、痛みも、果ての無い悲しみも……。小生は、いつも泣くときに、声を殺して泣くのでござる……」
夏男は自然な笑みのままで、姫野あたるを見つめた。マグカップを掴み、それをゆっくりとした動作で、口元へと運ぶ。
「神様にも仏様にも……、誰にもわからぬよう……。一人で泣くときは、声を殺すでござる……。生まれ育った環境がそうしたのか、わからぬでござるが、小生はいつも、声を殺して泣いてきたでござるなぁ……。いじめられても、その場では決して泣かなんだ。帰ってから、こっそりと泣くでござるよ……。笑い声は殺さぬのに、どうして、泣き声は消したがるのでござろう……」
夏男は、口元からマグカップを離して、微笑んだ。
「それがわかってしまうのには、君はまだ若すぎる……。時間はたくさんあるんだから、ダーリン、どうか答えを急がないでね……。君にだって、いずれわかる」
そう言いながら、夏男は気がついたかのように、こちらへと歩いてくる一人の絶世の美女に眼を凝視させる……。
姫野あたるは、夏男のその視線を辿るようにして、背後に振り返った。
こちらへと歩いてくるのは、元乃木坂46一期生の、齋藤飛鳥であった。
「飛鳥ちゃん殿!! さあさ、こっちでござる。温かい茶でも、どうでござろうか!」
夏男は、急激にその表情を緊張したものへと豹変させ、姿勢を正した。
齋藤飛鳥は、きょとん、とした表情のままで、姫野あたると夏男を物珍しそうに一瞥しながら、東側のラウンジに在るソファ・スペースで立ち止まった。
「ささ、飛鳥ちゃん殿、座るでござるよ~う、久しぶりでござる! 飛鳥ちゃん殿!」
「ああ、はい」齋藤飛鳥は澄ました表情で姫野あたるを素早く一瞥してから、苦笑して、夏男を一瞥した。「ふっ……。また知らない人がいる……」
夏男はソファから腰を起こして、強引な体勢で右手を差し伸べた。
「夏男ですうふふ……、さあ、シェイクハンドを……、さあ、さあシェイクハンドを……」
齋藤飛鳥は「はあ……」と、恐る恐るで、夏男の差し出したその手に触れた。齋藤飛鳥は、それから、西側のソファに着席する。北側のソファには夏男が。南側のソファには姫野あたるが着席していた。
「つか誰?」
齋藤飛鳥は、表情を明るいものへと変えて、姫野あたるを見つめた。
「夏男殿でござる。小生、話した事がござろう、小生には、心の師匠がいると……」
齋藤飛鳥は「あ~あ」とすぐに感心した。
「あの、秋田にいる人? …ですか」
「そ~うでござる!」
「茜富士馬子次郎(あかねふじまごじろう)こと、夏男です」夏男は奇妙な笑みを浮かべながら、腰を浮かして会釈(えしゃく)した。「夏の男、と書いてなつおです。夕君のお父さん達と親友の、夏男です。どうも初めまして……」